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聖書16/100週間


『民数記』第15章〜第25章を読む

『民数記』は人口調査の書とはいえ、具体的には罪に対する罰がなんどもなんども主から示される書であり、このことは『民数記』にかぎったことではなく、いままで読んできた事柄すべてに言えることだと思います。しかし、にもかかわらず、同じことが続発し、そのたびごとに主によって奇想天外な制裁を受けることとなる。はたして、現代にまでつづくこのくり返しはいったいなんなのでしょうか。罪を犯す人間は主の巧みなマジックショーを期待するがごとく罪を犯しつづけ、あるいはまた、カリスマ的なナイフ投げ師の投げた力強いナイフの刃先によって、腕や脇腹に印をつけてもらうことを願う物好きな観客のように、愚かにも罪を犯しつづけている。人間とは、果してそういうものなのでしょうか? 


聖霊からの戒めの言葉;人はこれで満足ということはなく、状況に応じて絶えず不平を言う。
M;はい、そのようですね。わたしも気をつけます。

祈りの言葉;不平などがなく、つましく生きれますように。



| 聖書100週間/未完 | 00:23 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書15/100週間


『民数記』第1章〜第14章を読む

最初、細々とした約束事が出てきてまたかと思ったが、読み進んでいくにしたがい、これは軍隊だなと思った。戦う相手を捜し求めながら放浪し、野営し、そして生きている。そのことによって、厳しい環境から不満分子が現れ、指導者モーセは、これらの民をかかえながら激しく懊悩する。その事柄に似た例はいままでもたびたびあって、わたしにはさして関心がなく、いつものことだと高をくくって読んでいるうち、14章あたりからふと、これは自分の内部で起きていることではないのだろうか? と、思った。

「こんな荒れ野で死ぬのならば、エジプトに引き返したほうがましだ」と泣き言をいっている共同体全体とは、それはわたしのあらゆる細胞であり、あらゆる器官であり、リンパであり、血であり、骨であり、筋であり、肉であって。脳を構成している襞であり、心であり、つまりは全身についてのことではないのだろうか? それらがガタガタと身勝手な振るまいをしている。


Mからの今週のKey-Word;「雲がとどまればその下に天幕を張って寄留し、雲が流れれば昼であれ夜であれ旅立った」と言う9章15節から23節はノアの箱船を思いださせる。

祈りの言葉;家の近くの遊歩道に白い水仙の花が一本咲いていた。水仙は好きな花だから手折らないで。



| 聖書100週間/未完 | 01:28 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書14/100週間


『神聖法集』(17〜26章)という見出しの付いたレビ記17章から最終27章(27は付録とか)を読みました。

これまで同様に、さまざまな掟や法について書いてありました。たとえば「血を飲むな」とか「いとうべき性関係」とか「聖なる者となれ」とか「不正な物差し」とか「司祭の汚れ」とか、さまざまです。事のよしあしはともかくとして、読んでいるうちにある面白い事柄が浮かんできました。そして、いつしかわたしの頭の中はそのことでいっぱいになりました。


事柄とは、茶聖・千利休が庭に咲き誇っていた朝顔を全部打ち捨てて、たった一輪の朝顔を時の最高権力者である豊臣秀吉に活けて見せたお話しです。『神聖法集』を読んでいると、なんだかそのこととが気がかりとなってしかたありませんでした。〈ソラ〉である創造主は「あれをするな、これをするな」とさまざまな行ないを禁じながら的を一つにしぼっていきます。そうすることによって、有象無象の行為に新たな価値基準やモラルを形づくります。


そうしたことによって事はかた苦しくなりますが、その分、明解になって深度が増します。

事が多ければ自由度もあって価値もあると見た秀吉の自由奔放な気分・・・捨てるからこそ深く輝やいてくるものがあると見た利休。その後、二人の関係はぎくしゃくしたものへ発展していったと歴史は述べているが、利休の覚悟! 秀吉の淫蕩!は、レビ記第26章36節あたりに書いてある「彼らは追う者もないのに倒れ、逃げてつまづく」の明暗と重なって、歴史が見せる二人の生きざまはそのままわたしへの戒めとなって、大変に興味ある『神聖法集』でした。


Mからの今週のKey-Word;利休の本心はなんであったのか? 秀吉の動揺はなんであったのか? 『神聖法集』の内容と偉人の“気の動き”をあらためて考えさせられました。(これは研究に値するほどの!)
R神父様からの戒めの言葉;旧約聖書にはわからないことが多いです。つまりステップ・バイ・ステップ、私たちは遠い遠い処に現在おります。
M;はい、解りました。

祈りの言葉;追う者もいないのに逃げ惑い、在りもしない剣につまづいて倒れることが時にありますが、そのような愚かなことを回避する術を今日の「神聖法集」で少し学んだような気がします。歩み寄った言葉で言えば「〈ソラ〉に愛されている存在として生きる!」そう感じながら生きてゆくことが出来れば、たった一輪の花になったとしても、ずいぶん呑気にやってゆけそうな気分です。上手く言えませんが、この気分がいつまでも続くようお守り下さい。



| 聖書100週間/未完 | 11:47 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書13/100週間


先週にひきつづき、『レビ記』06章から16章までを読みました。

今週のレビ記においても、先週同様、わたしは動物を焼いて神に捧げる燔祭(はんさい)の儀式やその他の儀式からは、残念ながらそれほど多くを学ぶことはできませんでした。もちろん、旧約のころは現代とは道徳観も違えば貨幣に対する価値も違うでしょうし、自然環境も大いに違っていたと思います。ですが、いまの私はわたし自身の目線でしか過去を見つめることができません。だからこそ、今後これからも聖書百週間をつづけたいと思います。


Mからの今週のKey-Word;旧約聖書はクライマックスのためへの助走か?
聖霊のささやき;人は規定をつくって守ろうとするが、守れない。すると規定が以前よりも厳しくなって余計に守れなくなってしまう。
M;ふふッ、パラドックスですね。

祈りの言葉;今朝、窓の外を大きな白鷺が美しい格好で一羽飛んで行きました。たぶん、近くを流れている神田川へでも舞い降りるのでしょう。この鳥にも糧があって、無事に暮らせることを祈ります。


| 聖書100週間/未完 | 23:40 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書12/100週間


出エジプト記35章;安息日の厳守
出エジプト記36章;幕屋建設の準備
出エジプト記37章;掟の箱
出エジプト記38章;祭壇
出エジプト記39章;アロンの祭服
出エジプト記40章;幕屋建設の命令

レビ記01章;焼き尽くす捧げ物
レビ記02章;穀物の捧げ物
レビ記03章;和解の捧げ物
レビ記04章;贖罪の捧げ物
レビ記05章;賠償の捧げ物



聖書を百週間かけて読む作業もようやく一割が過ぎました。私のような無神論者にしては、まずまずの結果です。これからの前途は多難ですが、できうるかぎり聖書から愛をみつけだし、すりきれそうになる現実の生活を少しでも豊かに、また、勇気もって前向きに歩いてゆけるよう、今後もこの読書をつづけてゆきたいと願っています。

さて、そんな矢先、またしても幕屋建設に対しての詳細で、あまりにも贅沢な建設の取り決めが執拗に書かれてありました。クリエーティブな世界で生きている私にとって、厳しい幕屋のデザインや取り決めは心躍るほど興味あることですが、いまの私が求めていることとはかなり筋が違っていて、むしろ、形而上学的な偶像に近いこの建造物には、どこかしら嫌悪感すら感じます。

また、本日より読みはじめた「レビ記」においても、罪の贖いのために使用される牛や山羊や羊、鳩や穀物に対する解体と儀式の方法が驚くほどに、実にめんめんと書かれてあります。

「出エジプト記」の幕屋や、「レビ記」の捧げ物への執拗なこだわりをどのように理解すればよいのでしょうか? とくに「レビ記」では、罪を犯した人々が動物たちの命の代償によって贖われ、罪が赦されることを私には上手く理解できません。人が罪を犯すたびに、罪もない動物の血と脂と煙による儀式がこのようにくりかえされたとしたら、あるいは、そのことによって人間の犯した罪が放免されるとしたら、これは偶像崇拝を行なう邪教の祭典となんら変わらないような気がしてなりません。もちろん、これは私の浅知恵であって、そこには〈ソラ〉による深い意味性や慈愛がきっと込められているのでしょう?。。。。。これが私の今週の感想です。


Mからの今週のKey-Word;主とか、神とか、創造主とか、父という呼び方にいまだなじむことができません。そこで今後は、私はそれらを〈ソラ〉と名付けました。空、宙、そら。。。。これはいじわるでも悪意でもなく、敬意をこめて、つまりはそうゆうことです。

祈りの言葉;我々がいま幸福でいられるのは、だれかがどこかで犠牲になっているからであって、できうることであれば、だれもが幸福であれることを深く希望します。



| 聖書100週間/未完 | 23:22 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書11/100週間


出エジプト記25章;幕屋建設の指示
出エジプト記26章;幕屋を覆う幕
出エジプト記27章;祭壇
出エジプト記28章;祭服
出エジプト記29章;祭司聖別の儀式
出エジプト記30章;香をたく祭壇
出エジプト記31章;技術者の任命
出エジプト記32章;金の子牛
出エジプト記33章;民の嘆き
出エジプト記34章;戒めの再授与



ひさしぶりの聖書百週間です。
今週のおもな内容は、前々回の10週目ですでに触れたことのある幕屋(移動式神殿)の建設についての詳しい取り決めの内容からはじまっています。ことは釘の一本一本にまで至るほどの細かい取り決めで、備品の多さとその贅沢さには驚かされるばかりです。取り決めがあまりにも詳細すぎて、それが4000年も前に書かれたものとは思えないほどの鮮明さです。これらの取り決めを読んでいると、驚きというよりも、なにかしら不信感のようなものが芽生えてきます。キリスト教は偶像崇拝を禁じていて、今週32章19節「金の子牛」のとこでもそのことが戒められています。ところが、荘厳華麗なこれらの神殿作りは一体全体なにを意味しているのでしょうか。金の子牛や摩訶不思議な鋳造の偶像と姿や形は必ずしも一致していませんが、わたしには幕屋自体がひとつの形而上学的な偶像に見えてならないのです。

と、まあいつものように書き出すときりがありません。それにわたしはキリスト教信者でもありませんから、深い洞察力や専門知識をもって読んでいるわけでもなく、表層の部分だけを読んでいます。ですから、表層の断片を人質に取って書くようなやり方はなんだかだんだんつまらなくなってきました。そこで今後は、聖書の中からできうる限り“愛”を見つけてゆきたいと思います。何千年も前に書かれ、今日に至るまでベストセラーをなし続けている書物に、枯れかかったイチジクの葉っぱ一枚をチンチンにぶらさげたアダムの末裔が所詮ぼやいたところで、到底に勝ち目はないからです(笑)。 それよりも、愛を見つけ、愛に包まれることを望む。だってわたしだって愛されたいし、愛したいから………。そこで早速に“愛”を以下へ見つけました。


33章18節>>>「わたし(神)は恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」

33章21節>>>「見よ、一つの場所がわたしの傍らにある。あなたはその岩のそばに立ちなさい。わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う。わたしが手を離すとき、あなたはわたしの後を見るが、わたしの顔は見えない」………この21節には鳥肌が立った。

おなじ箇所を文語体で表記してみた。
「視よ、我が傍に一つの処あり汝磐の上に立つべし。我栄光其処を通る時に我なんぢを磐の穴にいれて我が過る時、我が手をもて汝を蔽はん。而してわが手を除る時に汝わが背後を見るべし吾面は見るべきにあらず」


Mからの今週のKey-Word;心を開いて準備していなくてはならない。
R神父様からの戒めの言葉;信じて自然を見ていると見えるようになってきます。ビックリして、そのときに創造者と出合います。
M;はい、解りました。

祈りの言葉;わたし自身、一つのことで去年の初夏から昨日まで、じつにさまざまなことがありました。事は一転し二転し、四転してたえず変化していきましたが、いつも誰かにそっとささえられ、見守られていたようでなりません。こころならずも、少し心を開いて準備していたからでしょうか。一歩先のことはまだまだ余談を許しませんが、今後これからもできうるかぎり、聖書から深い愛を見つけていきたいと願っています。



| 聖書100週間/未完 | 11:32 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書10/100週間


出エジプト記16章;マナ
出エジプト記17章;岩からほとばしる水
出エジプト記18章;エトロのモーセ訪問
出エジプト記19章;シナイ山に着く
出エジプト記20章;十戒
出エジプト記21章;契約の書(奴隷について)
出エジプト記22章;盗みと財産の保管
出エジプト記23章;法廷において
出エジプト記24章;契約の締結



モーセはイスラエルの人々の共同体全体を導いてエジプトを出たものの、「出エジプト」の際にファラオとの交渉がいくどとなく難義したように、共同体全体の人々から寄せられる不平不満に悩まされながら旅をしています。そんな彼らに対し、モーセは「私への不平は、実は、主に向かって不平を述べているのだ」と言います。このニュアンスはなんとなく理解できるような気がします。内容はまるで違いますが、荘子が目先に迷う猿にむかって豆を与えながら言うところの「朝三つ暮四つ(ものごとは一つであってなに一つ変わらない)」の教えを彷彿とさせるからです。このことは、主が民の前へたびたび現れて、不平を述べる民にむかってモーセやアロンを通して行なう言葉や奇蹟、戒めなどが、荘子が言うところの“宇宙的なカラクリ”をなんとなく思い出させます。

目先のことだけにあれこれ迷う猿にも似た我々人間に対して、今週はあまりにも有名な「十戒」がでてきます。“十の戒”はとても詳細で、あらゆる事柄に対しての律法がほぼそのまま現代にまで通じる規約になっていることに驚かされます。人間が誕生してまだこんなにも早い時点でこれほどまでに緻密な律法が必要となった背景には………残念ながら、「人間とは当初からそういうものなのだ」という印象を拭い去ることができません。しかし、このことは23章の終盤を読んでみると、ことは人間に限ったことだけでもなさそうで、29節における主の計らいはあまりにも人間臭く用意周到であって、滑稽すら感じます。32節でもそうでしょう………神は神で、他の神々とイ二シアチブの獲得に必至のようでなりません。

これらをかんがみると、神と人との信頼関係は大切なようで、神が人間をつくったのか、人間が神をつくったのかが解らなくなってしまいます。いずれにしても、どんな小さな組織であっても、指導者とは常に愛と希望と信頼とによって行動しなくてはならない。昨今では銭がなによりもものいうが、企業とは理念がブレないでいられることが最大の信用であろう。けだし、これは〈私〉と〈私〉との関係であっても同じだ。これが今週の感想です。


Mからの今週のKey-Word;十戒における「命には命、目には目、歯には歯、手には手、足には足(略)」と言う律法はわりとはっきりしていますが、現代の刑法では被害者よりも加害者のほうが優遇されていたり、お金で罪を買うことができたり、なんだか釈然としないことが多すぎるようです。故意に目をつぶされたらその人の目を頂戴すればいい。
R神父様からの戒めの言葉;その場合、“目”以外に頂戴してはいけませんよ。
M;故意というところに付録を付けて、目のついでに相手の歯も頂戴したいが………、充分によく解りました。

祈りの言葉;今年も健康でいられましたことを深く感謝致します。


| 聖書100週間/未完 | 11:43 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書9/100週間


出エジプト記7章8節;アロンの杖
出エジプト記8章;カエルの災い
出エジプト記9章;疫病の災い
出エジプト記10章;いなごの災い
出エジプト記11章;最後の災い
出エジプト記12章;主の過越
出エジプト記13章;初子の奉献
出エジプト記14章;葦の海の奇蹟
出エジプト記15章;海の歌



今週も先週にひきつづき、モーセの苦悩が書かれていました。ただ、先週は神との間での苦悩でしたが、今週からは、エジプトに住んでいるイスラエル人に対するファラオの理不尽な行為に対し、神がファラオへくだす戒めをモーセが代行しなくてはならなくて、その事がスムーズに行かないが為の苦悩が書かれています。

たびたびにくり返されるモーセとファラオの問答はともかくとして、モーセからの嘆願をことあるごとにファラオは承諾しますが、その度ごとに、ファラオはいとも簡単にモーセ(神の代行人)との約束を裏切って破談にします。さらには、ファラオとの折り合いがなんとかついた後も、モーセは14章11節で同族の民から試練を受けます。このようにして、真に上に立つものの孤独や試練を読むほどに、この物語を聖なる叙事詩として読むのではなく、身近な問題として読んでみると………、例えば我が国と他国、わが国の国家とわたし、わたしと社会、わたしと家族、わたしと私など、どこを切り取ってもすべてにあてはまる問題のようであって、深く感銘致しました。
 
ゆえに聖書とは本箱の高くて遠い隅に置かれてあって、たえず埃をかぶってめったに開かれることのない書物ではなく、開きつづけて読むに値するものだと思いました。
先へ行ってどうなるかは解りませんが、今はそのようなことを感じます。


Mからの今週のKey-Word;ジェームズ・キャメロン & シムカ・ヤコボビッチによる『出エジプト記の“真実”』(2006年カナダ制作/NHK初回放送2006年10月11日)を見ることができた。最後のシーンでプレゼンターのヤコボビッチ氏が幕屋(アークが置いてある部屋)について推理していたとき、マッチ箱ほどの平たい黄金製の出土品を彼が指でつまみながら話したときは流石に鳥肌が立った。上から見た平面的な図柄を三つの空間(層)としてとらえ、その“層”を分解し、立体にして検証したからだった。ぺったんこの図柄にはとてつもない空間が宿っていて、上から順に一つ目が「神の家」! 中央の二つ目がその家へと至る階段! 最下位にある三つ目はグリフィンが守るアーク(聖櫃)!………この洞察力にはとても感服をした。と、同時に、シンボルとは凄いな!!と思った。

              
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祈りの言葉;「なぜ、なぜ」と疑問した聖書でしたが、聖なる書物がわたしにとって求め続けることのできる物となれば幸いです。


| 聖書100週間/未完 | 13:04 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書8/100週間


出エジプト記1章;エジプトでのイスラエル人
出エジプト記2章;モーセの生い立ち
出エジプト記3章;モーセの召命
出エジプト記4章;使命に伴うしるし
出エジプト記5章;ファラオとの交渉
出エジプト記6章;モーセの使命
出エジプト記7章7節;アロンの役割



今週から「出エジプト記」ですが、映画などで見知っている私のモーセ像は強くて逞しいイメージでした。しかし、聖書を読んでみて思ったことは、モーセは自分と同じ目線の人であって、どこにでもいる普通の人であったと言うことです。そのことによって、この物語はけっして人事ではなく、自分事のようでとても身近に感じることが出来ました。
 
モーセは3章で突然に「イスラエル人の指導者となるように!」と神から召命されます。しかし、モーセは使命の重さや不安、懐疑心によって困惑し、そのことを辞退します。これに対し、神は具体的かつ執拗にモーセへそのことをせまります。このようなやり取りがここには何度となく書かれていました。
 
それらのことを自分自身に置換えてみますと、なに事かやらなくてはならない大切な志がある場合、決心をして実行をしているにもかかわらず、先のことはなにひとつ見えないがため、志が自分にとって本当に大切なものであるかどうかをたえず疑いながら、実行したりしなかったり、あげくの果てにはそれを途中で投げ出してしまうことが度々あります。モーセの場合は、神が奇蹟でもって具体的にそのことを眼前へ証明しているにも関わらず、また、モーセの祖先をたびたび救いだしてくれた“神という絶対的”な後ろ楯であるにも関わらず、彼はたえず尻込みをしています。でも、モーセは神によって守られ、神によって今後導かれて行きます。だが、これといった後ろ楯の無さそうな私はどのような勇気をもって、なにを信じ、なにに向かって行けばいいのだろうかと言う、そんなラチもないことを考えてしまいました。これが私の今回の感想です。


Mからの今週のKey-Word;旧約聖書には「なぜ」と言ったような矛盾した箇所が随所にあります。しかし、いまもって多くの人々に読まれているのを考えてみると、「なぜ」と問いかけるのは人間の「理性」の狭さかも知れない。
R神父様からの言葉;2章3節の「パピルスの籠………」はノアの箱舟を。3章5節の「足から履物を脱ぎなさい………」はアダムの誕生を。このようにして、聖書にはあることがらを繰り返し想起させる処があります。
M;はい、解りました。

祈りの言葉;不確かで愚かな私を、太陽が、風が、雨が、小鳥たちがやさしく導いてくださいますことを深く希望します。


| 聖書100週間/未完 | 09:24 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書7/100週間


創世記37章;ヨセフの夢
創世記38章;ユダとタマル
創世記39章;ヨセフとポティファルの妻
創世記40章;夢を解くヨセフ
創世記41章;ファラオの夢を解く
創世記42章;兄たち、エジプトへ下る
創世記43章;再びエジプトへ
創世記44章;銀の杯
創世記45章;ヨセフ、身を明かす
創世記46章;ヤコブの、エジプト下る
創世記47章;ファラオとの会見
創世記48章;ヨセフ、身を明かす
創世記46章;ヤコブ、ヨセフの子らを祝福する
創世記49章;ヤコブの祝福
創世記50章;ヤコブの埋葬



今週の37章から最終50章までは、いままでとはまったく違った「なぜ」という疑問もなく、興味深く、また、最後まで素直に読むことができました。ですから、これと言った感想は特にありませんが、さまざまな“愛のかたち”が満ちあふれていたと思います。この“愛のかたち”の根源には、神を信じ、神によって愛された人ヨセフの祝福がいつでも中心になっていたと思います。それが端的にあらわれていたのが冒頭39章2節から6節です。エジプト人とヘブライ人という生き方や価値観の異った者どうしであっても、人を信じ、人を愛するという信頼関係があることによって、“愛の輪”が一段と広がっていくことが書かれていました。他の章は、そのことのヴァリエーションだと思います。

Mからの今週のKey-Word;巧みな言葉や、あの言葉この言葉などが不必要な心と心の溶け合い。
R神父様からの戒めの言葉;ヨセフは“夢の人”です。この週のヨセフ物語はたいへん美しいです。
M;はい、私もそう思います。

祈りの言葉;私はいまだ具体的な神(例えば、キリスト)からの愛というものをまったく理解できないでおります。これは私がひねくれ者の性分であって、愛を愛として素直に受けとめることがとても苦手でだからです、しかし、“大いなる何物か”からたえずしっかりと愛されていると言う実感だけは持っております。この「聖書百週間」を通して、少しでも“大いなる何物か”へ触れることができ、そのことによってなにかが溶けはじめ、人を愛し、人に愛されることを素直に受け止めて生きて行けることができれば幸いです。


| 聖書100週間/未完 | 00:54 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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