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夏の嵐
何十年かぶりかにルキノ・ヴィスコンティ監督による1954年のイタリア映画『夏の嵐』をビデオで観た。ヴィスコンティ映画の中ではそれほど有名ではなく、あまり人気のない映画だと思う。オーストリア軍フランツ・マーラー中尉役の色男になんの魅力もないし、イタリアの伯爵婦人リヴィア役のアリダ・ヴァッリの痴話っぽい表情を観るのもつらい。が、舞台は1866年のイタリア対オーストリア戦争を背景にして、当時オーストリアの支配下であったヴェネツィアはラ・フェニーチェ劇場からはじまるから興味深い。

ハプスブルク帝国による「大ドイツ」オーストリアはもはや斜陽で、「小ドイツ」プロイセンの“鉄の爪”を持ったビスマルクによってすでに喉頚をつかまえられている。イタリア人も「イタリア万歳!」と叫びながらプロイセン側についているという活気ある時期なのだ。

ルキノ・ヴィスコンティはつねづね、「衣装は外側の飾りではなく、人生そのものだ」と言っているだけに、コスチューム・デザインや室内のあつらえ、小物類はいつもながらの彼によって巧みに裏打ちされていて、この映画も観ていて楽しかった。それに、なによりも色調がいい。ぼくはデジタルリマスター版でこの映画を観たことがないのでなんとも言えないが、ビデオテープの独特の柔らかい発色はまるで雪の日のうす暗がりのようであって、壁に反射している光や薄いカーテンを透過しているくぐもった光、あるいは寝台の角でうずくまって動けないでいる一塊の黒い影にも、どれにも心が素直にとけ込んでゆく。輪郭は適度にあいまいにぼやけ、どの色にもうっすらとした青灰色が滲んでいて、あらゆる背景に流れている時空間の濃密な多義性を一つ二つと拾い上げているだけで、この『夏の嵐』は愉快になってくるのだ。と同時に、ヒロインである伯爵婦人役のアリダ・ヴァッリの“人生そのもの”の衣装から妖艶な肌がちらちらと露出してこれまた愉快であり、三面記事的な痴話なストーリーなどもうどうでもよくなってしまうのだ。しかし、セットで組んだヴェネツィアの街を二人がゆらゆらぷらぷらと夜明けまで歩いているうちに恋に落ちてゆく前半あたりは初々しくってなかなかによい。

この映画はバロックだと思う。

貴族的であって通俗的であり、飛翔したいと望みながら下降し、下降したかと思うと飛翔して、なにがなんだかわからないまま墜落する。きわめて人間的といえば人間的であってリアルだ。薄暮れ色のグレィシュな街角を喜々と歩いたり、野戦場の大砲が放つ白い煙をものとせずとも、詐欺師まがいの色男に引っかかってしまって、ときに駆け、ときに四輪馬車にゆられながら、その美しい顔立ちを黒いベールの下にいくら隠してごまかしても、奥に光った瞳はたえずなにかと衝突をしていた。そんなバロックであいまいな人間(アリダ・ヴァッリ)の髪をときどき飾っては見せてくれるアネモネ色の花冠は、強い色調で自己主張しているようであり、ほんのり墨がかった紅色が妙に侘びてせつないほど凛としていた。

このようにして、久しぶりに観たヴィスコンティの『夏の嵐』の色感はやはりいい。ビデオテープには甘やかな色彩感覚があって、どうでもいいような横っちょの空間であっても、刺激的なディテールや濃度があちこちに陰影化されていて、粒子がたえず微妙にうごめいているからなんだ。そんな彩度の低い落ちついた写真がいつでも撮れればいいと思うのだが、忙殺のせいにしてハンディーなデジカメで安易に撮っていてはどだい無理なことなのであろう。またひとつ反省をする日である。



*追記;映画『夏の嵐』についてのぼくなりの感想をここまで書いてからふと頭をよぎったことだが、1866年代のオーストリア軍将校を演じたファーリー・グレンジャーという美男俳優がピンとこなかったので彼の役柄をあまり深く考えていなかった。だが、多民族国家であるハプスブルク帝国はプロイセンに敗れ、イタリアからも駆逐された後、ロシアの脅威もあり、ドナウの帝国として存続していくためにはハンガリーとの協調がなしには考えられない時代であった。ために、1867年、ハンガリーは事実上独立国家として一人歩きしはじめ、オーストリアと平等な君主国家となって、ここに二重帝国「オーストリア=ハンガリー帝国」が誕生する。映画はその年の前夜のできごとであることを考えてみると、この女たらしの青年将校が金と女と逃亡とにあけくれた末、彼の甘い言葉によってボロボロにされてしまったイタリアの伯爵夫人に密告をされ、逃亡罪で拿捕されて銃殺刑にあってしまう。が、このだらしのない彼の哀しみは、巨大化したマンモス象のようなハプスブルクがやがてはドサリと倒れるであろう寸前の姿であり、また、戦場に散っては血の恐怖と孤独とにたえずあけくれなければならなかった青年たちのあらゆる群像でもあったとすれば、このことは存外にピュアなことであって、あまりにも色男すぎてなんの特徴もない彼がそれゆえに愛おしく、彼のマスクにもうっすらとした青灰色の中間フィルターを一枚差しはさんであげたくなった。

当初は彼の役をマーロン・ブランドが担当する予定であったと聞くが、マーロン・ブランドでは暴力的イメージが強すぎて、幕の揚がる前からそのキャラがぷんと匂ってたぶん平面的であったろう・・・あれやこれやと妄想すれば、ファーリー・グレンジャーというこの俳優でよかったのかも知れない。

またこれは余談だが、紅いホイールを履いた屋根の低いスマートな大型四輪馬車が、そのボディに泥をまきつけながヴェネツィアからヴェローナへ向かって早駆するシーンはすこぶるよかった。田舎道の“ハイウエー”は石ころの転がった泥道であったが、堅牢で瀟洒な四輪馬車は、まるでイタリアの高級車マセラッティが暴走しているがごとくであって、ぼくを恍惚とさせる。



| 映画 | 23:10 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ハプスブルク帝国崩壊前夜


私たちはみな変死する………と嘆息をしたオーストリア皇女にしてハンガリー王女であったエリザベート皇后。その人の夫、皇帝フランツ・ヨーゼフの肖像画や、オーストリア=ハンガリー帝国の世継ぎ人となったルドルフ皇太子が登場する映画『幻影師アイゼンハイム/The Illusionist』をビデオで観た。
 
この映画は昨年の五月、日比谷などで上映されていたが、貧乏暇なしでバタバタしているうちに観そこなってしまった。また、原作が収められているスティーヴン・ミルハウザーの短編集『バーナム博物館』(白水Uブックス)はすでに入手してあったが、物語は手品や奇術がテーマだっただけに、映画を観た後で本は読んでみたいと思っていたから、これも今日まで“積ん読”の状態であった。そんなこんなで、お粗末ながらも正月休みを利用して、永年の思いを!!? 本日やっとこさ成しえた次第である。

さて、この『幻影師アイゼンハイム』は映画としていまいち物足りなかったが、いろいろな意味において、これはとても面白かった。なぜであれば、ハプスブルク帝国(オーストリア=ハンガリー帝国)崩壊末期のウィーンが舞台になっていたからだ。時の皇帝はフランツ・ヨーゼフ、そして、マイアリンク事件(一八八九年)で有名なあの皇太子ルドルフに似せた役どころの“皇太子レオポルド”(ヨーゼフとエリザベートの間にできた皇太子はルドルフ王子ひとりだったから、これは絶対にルドルフだが)の登場や、ウール警部が重要な脇役となっていた。特に、皇太子ルドルフ=皇太子レオポルドの役柄自体がこの映画の中でひとつの大きなマジックを確保していて、このことによって『幻影師アイゼンハイム』はとても面白くできあがっていた。しかし、それを此処でくだくだしく書いているときキリがないのではしょってしまうが、ハプスブルク帝国の皇太子ルドルフが起こしたマイアリンク事件とは、ウィーン郊外にあるマイアリンクの狩り場に建てられてあった皇太子専用の館で、マリーという下級貴族の娘を道づれにピストル自殺した心中事件のことである。崩れゆく大帝国を前にして、その帝国を一心に守ろうとした父フランツ・ヨーゼフとの確執のちがい。あるいは、自由奔放でリベラルな思想を持つ母エリザベートへの思慕と影響。そして、国をおもんばかってなにごとにも厳格一徹であった祖母ゾフィーの存在。そのような火と油と水が入り混ざったような王宮で育った彼の心は、たえず動揺し、緊張をいつも強いられながらも来たるべき時代へと自身をそなえ、心が不安定なまま千々にゆれ動いていたのではないだろうか………

そんなルドルフの有様に目をつけた脚本家であり映画監督でもあるニール・バーガーはやはり凄い人だと思った。スティーヴン・ミルハウザーの原作からは遠く離れてしまっていたが、皇太子ルドルフの繊細なキャラクターを上手く当用したエンディングの妙により、この映画が幻影師アイゼンハイムと侯爵令嬢ソフィとのたんなるロマンチックな恋物語としてではなく、アイゼンハイムが皇太子に仕掛けた奇想天外な罠は、歴史という砂時計の粒子によって形づくられたタッチとあいまって、一つの針穴へアイゼン(鉄)の糸とイリュージョン(煙)の糸とを同時に通してみせる目眩しの術にでも喰らったかのような幻惑感がそこにはあった。このことは、映画としての物語全体が一つの個としての出し物になっていて、ネタであるトリックの種は「歴史の中に隠されているよ!?」と遊び心をこちらへ投げかけてくるあたり、なかなかどうして、この監督自身が『The Illusionist』だなと思わせる。

まあ、そんなことはともかくとして、始終好感のもてる庶民的なウール警部が最後に見せてくれた走馬灯のような秩序だったタネ明かしによって、映画『幻影師アイゼンハイム』は、“見たものはすべて幻影なのだ”という独自のエンターティンメントを洒落た手品師さながらに上手くスクリーン上で獲得して、結末としては少々荒っぽい畳みかただったが、皮肉にも原作を凌駕している。と、ぼくにはそう思えてならない映画だった。


*蛇足 主役を務めていたアイゼンハイム役のエドワード・ノートンは、ぼくの大好きな映画『キングダム・オブ・ヘブン』でエルサレム王ボードワン4世を演じていた。癩病を患っていたがために始終銀色の鉄仮面を被っていたが、涙が滲むほどの名演技だった。顔の見えない役柄とは………彼はこのときからすでに幻影師を演じていた。



| 映画 | 20:03 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
蛇と瀧と人形と


 わたしという人間の記憶は、じつに曖昧なものだ。
 以前に、映画『赤目四十八瀧心中未遂』を観た感想をこのブログ(3月4日「正倉院のはるけき織物(一)」)で少し書いたことがあったが、そこで大きな間違いをしてしまった。
 
   赤目口駅で三重交通のバスが少し傾きながら客を待っているシーンが
   あったが、あのシーンはきっと榊原温泉口駅の駅前を代用したのでは
   ・・・・・・・・。

 と言う箇所だが、昨日あらためて観て、その間違いに気づいた。

 映画の中で三重交通のバスがでてくる場面は二回だが、はじめは近鉄赤目口駅前で葬儀の一団がでてくる場面でまず映る。つぎに、<綾>という女と<生島>という男が食堂でカツ丼を食べる寸前にまた登場する。このとき、フィルムの編集がいきなりだったので、駅前でカツ丼を食べているのだとばかり思い込んでしまった。しかし、二人はすでに赤目四十八瀧までバスに乗って(いまだ?だが、でないと辻褄があわない)きていて、そこで下車し、そこの場所の食堂で喰っていたのだった。
 なぜそんなことにこだわるかというと、バスの傾き具合に疑問を持ったからだ。それと、バスをとりまいている空気感に湿度がありすぎて不自然だったからである。
 近鉄赤目口駅前にはなにもなくて、バスが傾斜するようなところではないし、たぶん、あのような湿度もない。そこで、あさはかにも「榊原温泉口駅の駅前を代用したのでは」と書いてしまった。榊原温泉口には青山高原が迫っていて、傾斜にも湿度にも申し分のない場所であったからだ。しかし、それは間違いであった。答えは単純で、赤目四十八瀧に着いてからカツ丼を喰っていたのだ。とすれば別段、頓着するような問題ではなかった。

 <綾>は真ッ白いノースリーブのワンピース。<生島>も真ッ白い開衿シャツに下駄履き。ともに死出の旅路への死に装束を身に纏いながらカツ丼を喰っている。男はまったく食欲がないが、女はズルズルと半熟の卵に包まれたカツを美味そうにパクリパクリと喰っている。二人は天王寺あたりから電車に乗る前にもメシを喰ったが。このときも、<生島>という男が残した生卵を女は蛇が卵を呑むときのような表情をしながら一口に呑んだ。
 そんな“蛇”は瀧壺をめざして始終イニシアチブをとっているが、男はデクノボーの人形のようにツンのめりながら、下駄の音を未練がましく下界へ残して、蝉の音にせかされながら小走りで山を登ってゆく。女も下界に未練を残してはいるが鳥の籠で、目線はヤクザな兄のせいで身売りを余儀なくされた夜の博多へ飛んでいる。
 死ぬも生きるも肝がすわっていて、一枚も二枚も上手なのだ。

 このように観た二度目の『赤目四十八瀧心中未遂』の映画は、寺島しのぶ演じる<綾>は手慣れた人形使いで、<生島>はテケテケと踊る文楽人形のようであった。
| 映画 | 09:56 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
一角座


 東京都台東区上野公園東京国立博物館敷地内にて、映画監督荒戸源次郎氏率いる一角座が、只今『赤目四十八瀧心中未遂』を再上映中です。
 お見逃しなく。



| 映画 | 10:33 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
無言の会話
 日曜洋画劇場40周年特別企画で、藤沢周平原作の『蝉しぐれ』黒田三男監督(2005年)をTVで観た。
 藤沢周平といえば、熱狂的なファンを獲得している作家なので、わたしごときがとやかく語るつもりはないが、映画『蝉しぐれ』について少しだけ書いてみたいと思う。
 ストーリーはいまさらながらなので書かないが、海坂藩藩主の寵妾になった幼なじみの福(お福さま)が尼寺である白蓮院の仏門へ入るという手紙をもらった文四郎(郡奉行牧助佐衛門)が、海の見える宿屋でラストシーンに福と密会する場面がとても印象に残ったからである。
 お福役の木村佳乃は始終おだやかに微笑しながら、まるで夢の中にいるような表情をしている。文四郎役の市川染五郎も夢の中だ。二人は子供のころの思いで話をぽつりぽつりと交わしている。しかし、発音する言葉よりも無言の言葉のほうが多い。この映画を途中から観た人なら、その進展があまりにもとろくてチャンネルをひねってしまうだろう。だが、最初から観ている人であれば、この無言の間合に交わされている台詞を百人百様が、それぞれの思いで観ていたはずである。原作にはないが、この宿で「お福さま」と敬語で呼んでいた文四郎が「福」と一度呼び、二度呼ぶ間に表情をつぎつぎと変えてゆく木村佳乃という役者の演技に好感がもてた。表情を変えるだけのなんでもないシーンだが、なんでもないシーンだけに、きっと難しいだろう。それを、この女優はよくこなしていた。
 映画『蝉しぐれ』のこのラストシーンは、遠い昔の時間とこれから先の時間が綾をなして、進むでもなく止まるでもなく、夢としかいいようがないうちに終わってしまう。だが、原作は「あのひとの白い胸など見なければよかったと思った」と、はかなさとくるしさに葛藤する文四郎のこころ模様に、“しあわせ”という言葉を残して終わる。

 義父(緒方拳)との別離。剣の技。そして、愛。無言という沈黙の世界が魅力的な映画だった。
| 映画 | 13:34 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
裸足のノック
 立秋も過ぎたが、夏はいまが盛りで、蝉がうるさいほどしきりと鳴いている。だが、わたしは急な仕事に追われながら、白いカーテンを引いた部屋でひっそりと一人、缶詰状態になって机にむかっている。八月十三日から蓼科へ友人と遊びにゆく約束もキャンセルしたばかりだった。そんな仕事の合間をぬって『クジラの島の少女』という映画をDVDで観た。
 ちょっとした息抜きもあったが、先日、中国の揚子江だけに生息するバイジーというカワイルカが絶滅したというニュースをラジオで聞いたばかりだったし、イタリアの作家、アントニオ・タブッキの『島とクジラと女をめぐる断片』(須賀敦子訳/青土社)の中にある後書、「一頭のクジラが人間を眺めて」の短編が始終わたしの頭から離れることがなかったのも、この映画を観ておきたい要因であった。

 ファーストシーンは、濃度のある黒潮がプンと匂ってきそうな海の泡からはじまった。蝉の声にせかされながらも、どこへも行けないでいるわたしにはぴったりの記憶----------そんな喜びに満たされる懐かしさがあった。

 『クジラの島の少女』のあらすじは、ニュージーランドのマリオ族の神話伝説にもとづく物語で、マリオの族長コロ・アピラナの家系に生まれた少女が葛藤の末に、おそらくは族長パイケア・アピラナとしての地位を継承してゆくであろう映画だった。
 「先祖はクジラに乗ってやってきた」というマリオの神話伝説に登場する勇者パイケア(ホエール・ライダー/原題)の魂を受け継ぐ者はだれなのか。もちろん、その血筋の男子でならなければいけなかった。族長の長男ポロランギに双子の子供が生まれたが、不幸にも母親は出産時に死亡して後継ぎの男子も死産、残った一方は女子だった。父親はこの子に勇者パイケアの名前を授けるが頑固者の族長コロはそれを許さなかった。そんな断絶からか、ポロランギはヨーロッパへと旅立ってゆく。残された孫娘と暮らすコロには族長としての誇りや責任、義務があって、部族を救世する予言者選びのことしか頭になく、孫娘パイケアへ心を砕く余裕などまったくなかった。コロは村の少年たちを呼び寄せて、文武を学ばせた。彼は特訓の末に、自分が所有する鯨の歯のネックレス(レイプタ)を海の底へ投げ捨てて、拾ったものを後継者にするという苦肉の策をこうじるが、レイプタを拾える者はなく、無惨にも失敗する。コロは権力の象徴である“鯨の歯”も希望もなくしてしまう。
 そのとき、一人のピュアな少女の魂に奇跡が起こる。
 十二歳の少女パイケアは海の底からすでにレイプタを拾っていて、父親が残していったカヌーの中から「指導者が一人では、それがどんなに強い人物でも疲れに負けてしまう。パイケアもそうだった。でも、海を漂流しながら先祖を信じて祈っただろう」と、ほぼ天才に近いシャーマンの発想でその祈りの歌を歌った。
 すると、クジラたちが累々と浜辺に座礁した。村の大人が海へクジラを返そうとするが、クジラたちは少しも動こうとしない。族長コロ・アピラナの試練のときがやってきた。しかし、レイプタも杖もなくしてしまったコロの祈りではクジラはビクとも動かなかった。疲れはてて戻ってゆく大人たちとは反対に、シャーマンの力を宿したパイケアはなおも透視しつづける。「私が彼らを呼んでしまった。クジラは死ぬ気で生きる意味を失っている」と予言する。

 パイケアが首領らしきクジラに触れると、噴気孔から潮を吹く。セミクジラだろうか、角質化したコブを足場にしながらパイケアがそのクジラの背に乗って「行くよッ」と小さな素足でクジラの胴に拍車(ノック)をかける。すると、他のクジラたち眷属を従えた大クジラがパイケアを背に乗せたまま沖をめざして泳ぎだす。やがて海中へと沈んでゆく少女パイケアの孤独は、そのまま伝説の勇者パイケアの孤独感とオーヴァーラップしてゆく。
 結果は先にも触れておいたが、意識不明のまま発見された少女パイケアは、やがてマリオ族の指導者になってゆく………? そんなラストシーンでこの映画は終わるのだが、ラストの祭というか儀式は少女パイケアのものであって、このシーンによって彼女がその地位を継承したことがわかる。それだから、とても重要な場面なのだが、映画がどきどき陥っこちる落し穴にはまった感じで、せっかくの映画を台無しにしたとでもいうか、平面的なものにしてしまった。
 新しい指導者が出現した聖なる祭だから大勢のマリオ族が集まってくるのは必然だが、そのことの意味をよく理解できていない“役者”たちにスポットがあたりすぎていて、たんなる祭典で終わっている。少女パイケアの祖父コロは部族の未来を案じて村の少年たちに文武を教え、そして悩みもした。であるならば、あまり大勢の人間たちにむかっていちいち焦点をあてたり、いかにもマリオ族のカヌーとばかりに刺青をした男たちをスクリーンに登場させてゴージャスに飾った舟を漕がすのではなく、なぜ少女パイケアとともに苦楽をともにしてきた少年たちにその場を譲らなかったのだろうか。カヌーは勿論、父親が作りかけて見捨てていったカヌーでなければならないが、その説得力もない。いまや現代作家として、ドイツやヨーロッパで成功している父親ポロランギもパイケアの祭典のために帰国している。このポロランギと少年たちが力を合わせ、いままで野ざらしのままに放置されていたカヌーを完成させて、とりどりの花やリボンで白骨化したカヌーを艤装し、少年とかかわりのあった村人たちとでカヌーをランニングさせたほうがよほど理にかなっていたのではないだろうか。勿論、エキストラを何百何千人使おうがそんなことはかまやしないし、舟に屈強な若者を配置するのも当然だろう。だが、舟はあくまでもホエール・ライダーである少女パイケアのものである。マオリ族の誇りを、家族を心から愛してやまない新世代の救世社パイケアは、ジェンダーを超えて、仲間である少年らとともに海の匂いや空の息吹をたっぷり吸い込んだ巫女的な微笑みで、雲の流れや光の角度を透視しながら座っていてほしかった。

 動物と人間、少数民族文明と白人社会文明、弱者と強者………。原作がどのようになっているかは知らないが、この物語の根底に流れているものはそういうものであろう。そこから生まれでるジェネレーションギャップや家族の崩壊、民族の衝突などと数えあげればきりがない。ひっくるめてしまえば侵略戦争への批判であり、そのことへの復権だ。しかし、表だっては影響のない国であっても、一皮むけばその競争に翻弄されていて、どの国であっても現にありうることなのだ。揚子江のカワイルカを例にあげるまでもなく、肌の白・黒・黄色にかかわらず、あらゆる人間につきつけられた問題であり、葬り去られたものたちへの鎮魂歌をどのように唱えていけばいいのか………。
 文明という名から背をむけたものはすべからく異端者であって、これを武力によって侵略する歴史は今後もつづくであろう。つい最近にカワイルカが絶滅したことは、おおよそ生命あるものすべてにむけられた警告であるにもかかわらず、人間による弱いものいじめへの蛮行は終わることがない。この繰り返しは、もはや宇宙的規模にむかって現在進行形なのだ。
 これを救えるか救えぬかは誰のせいでもない。われわれ人間次第なのだが、そこが問題なのだ。
 この映画『クジラの島の少女』は少なくとも、唯一最後の鍵である愛のかたちを指し示してくれた物語であろう。そんな普遍の鍵で歪みゆく扉をノックしたのが、裸足の少女パイケアだった。
| 映画 | 12:33 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
サイコな『さすらい』
大好きだったイタリアの映画監督ミケランジェロ・アントニオーニが、30日に死去した。冥福を祈る。合掌


 アントニオーニの『さすらい』を見ていると、オカルトやホラームービーの恐怖がなんとも稚拙に見えてならない……という書きだしではじめると、どんなに怖い映画だろうと早とちりする人がいるといけないので誤解のないように先に述べておくが、そうした意味での恐怖映画ではなく、下手をすればとても退屈な映画かも知れない。なぜであれば、イタリアという洒落た国のイメージがどこまでいっても貧しく泥だらけで、しかも、雨が降ってぬかるんでいる。映画『さすらい』の原題名は「絶叫」だが、表向きにはそのような叫びもなく、普通といえば普通の人間である主人公アルドという男が、内縁であった妻との別離によって刻一刻と虚無の世界へむかって静かに遍歴してゆくロードムービーなのだ。
 簡単にストーリーを説明してしまえば、場所は北イタリアのポー河に近い精糖工場に務める機械技師アルド(スティーヴ・コクラン)が、十年近く同棲していたイルマ(アリダ・ヴァリ)という女性から突然に「愛せなくなった」と宣告される。このイルマという女性はミステリアスなところがあって、たとえば多情だとか……母性の象徴だとか……そういってしまえば簡単だが、そのことはまた別の問題であって、この場合は表立って重要でない。だが、都合上述べておくと、イルマにはオーストリアへ出稼ぎにいっている夫があって、夫の出稼ぎ中にアルドと生活してしまっている。そして、第三番目の男をすでに見つけていて、夫がオーストリアで客死したというタイミングをみはからってアルドと別離する決心をする。ドラマはここからが本番で、主人公アルドの長い漂泊がはじまるのだ。
 別れるとはいっても、そう簡単にアルドはイルマへの思いを断ち切ることができず、家も職も捨てて、幼い娘のロジナを連れてあてのない旅へとでかける。機械技師の腕でそれなりの日銭を稼ぐことはできるが、どこへ流れていっても、どんな女の世話になろうとも、イルマへの情愛が足に心へと絡みついて思うように立直ることができないでいる。落莫としている中、自分だけならなんとかなるだろうと思って娘を故郷の村へ帰してしまうが、結局は旅に疲れたアルドは、故郷の村へ知らずしらずのうち戻ってゆく。だが、その村にもイルマにも確かな絆を見つけることができず、彼は自分が務めていた精糖工場の鉄塔へ上ってゆく。いまでは気が抜けてしまっているアルドの後を追いかけてきて叫ぶイルマの声をタイミングに、アルドは聞き覚えのある声に引きずられるようにしながら彼女の足元へドスンという鈍い音を残して落下する。
 「なんだ、たわいない色恋沙汰の安っぽい世間話じゃないか。オカルトやホラームービーの戦慄より怖いなんて冗談じゃない」とせせら笑うか憤慨するか知れないが、ぼくにはそう思えたのだからしかたがない。

            *発売元:株式会社アイ・ヴィー・シー IVCF-5014 DVD

 イルマとアルドはなぜ破綻したのか、イルマにはオーストリアへ出稼ぎにいっている夫があるのになぜアルドという男と同棲しているのか、なぜ三番目の男をつくったのか、そもそも幼い娘はだれの子供なのか、アルドにも妻がいたのではないだろうか、「なぜ、なぜ」と疑問はつぎつぎと浮かんでくるが、映画はそんなことをすこしも問題にしてはいない。だからといって不自然でもなく、むしろ、それらを凌駕するだけの質や眼差しが随所にあった。それがなんであるのか定かではないが、たぶん、アントニオーニは平凡な日常のつじつま合わせを問題にしているのではなく、アルドという主人公を放浪させることによって〈アルド=人間〉の内的世界を我々へさらけだし、これでもかこれでもかと意識の底へ下降してゆくことが目的ではなかったか。それと同時に、人は生きてゆくためには日銭を稼がなくてはならないという〈社会性=日常性〉の渦の中で、さまざまな社会のあらゆる人間たちとアルドという一粒の人間を結びながらあぶりだし、目には見えない内的な世界を目に見えるように解体しながら露出させてゆく。たとえばこの男がなに不自由ない裕福な家庭の人間であって、自家用車に娘を乗せながら髪をなびかせて旅をするのであれば人生楽なことであるが、技師とはいっても爪の間に油をためこんだ機械工であり、旅のトランクにも、スボンや上着のポケットにもプライベートな余裕などまったくない男なのだ。旅の途上、知らない女が用意してくれたバラックで幼い娘と寄り添いながら眠ったり、ヒッチハイクをしながらかつかつと寂しい旅をしつづけている。そんなアルドは結構まじめな人間だが、さまざまな女との出合いによって意識はいやがうえにも起伏して、かえってやり場のない孤独感が増してゆく。むかしの恋人に……、ガソリンスタンドの女主人に……、作業場の雇主である男の情婦らしき女に……、おもわず心が触れあって危うい関係になるが、どの女性とも上手く噛み合うことができず、渇ききった咽喉をいたずらに絞め上げてゆくだけだった。むろん、孤独なのは女性たちもおなじことであって、ことに、雇主の情婦らしき女の生活は一見派手に見えるが、一皮むけば哀しい女で「身の上話をすれば一ヶ月はかかる」といらだちながら、不安定な精神状況を赤裸々に見せてアルドとわかち合うこともできず絶望する。

 先ほどから同じことを何度もいって恐縮するが、この映画がなぜオカルトやホラームービーよりも怖いのか!! もうとっくにこのページを放り投げてしまった人もいるだろうが、酔狂な人は騙されたと思ってもうすこし辛抱をしてほしい。

 アンリ・ベルクソンというフランスの哲学者が『物質と記憶』の中で面白いことをいっていたので、『さすらい』のラストシーンにそのことを無理やりこじつけてみたくなった。
       
 さすらいの遍歴に疲れはてたアルドが村へもどってる。村は飛行場の建設予定地になっていて、田畑が滑走路にされてしまうため、農民と労働者階級が団結しながら集会やデモを行いっていた。アルドはそんなことは上の空でイルマを捜しつづけるが、旅の途中で別れた娘のロジナが「ママ」といって入っていった村の家の窓の奥の中を覗いて見るとイルマがそこにいて、赤ん坊のオムツを変えていた。ベルクソン流の話はここからだで、ベルクソンは「現在という瞬間にはそれ自体としての内容はほとんどない」といっている。赤ん坊のオムツを変えているイルマを見た瞬間、アルドが見た赤ん坊は他人の赤ん坊であったが、その光景は、なんどとなく過去に見つづけてきた娘ロジナのオムツを変える愛らしいイルマの姿であって、まぎれもなく幸福に満ちあふれた過去の記憶が他人の女房になってしまった女(イルマ)の住む家の窓の奥に追認してしまったのだ。それを見たアルドは朦朧としたまま、幸福だった日々に朝な夕なと反復をくり返した精糖工場へ向かい、夢遊病者のような格好になったまま、工場の敷地の中にある鉄塔へふらふらと上ってゆく。この時点で、アルドの現実は回想によって侵食され、たくましい五体は眠り男のように無能な枯れ草となり、冷たい鉄塔の中空で溺れかかっている。刹那! 地上から「アルド」と叫ぶイルマの声が聞こえてアルドの脳髄は一挙に覚醒するが、無能となった肺や心臓がその一瞬の刹那に追いつくことができず、酸欠状態のままふわりふわりと宙を泳ぎながら浮游して、そのままドサッとした鈍い音とともにイルマの足元へ落下して死ぬ。映画はこの一瞬で終ってしまうが、アルド役のスティーヴ・コクランの演じた生と死をわける落下寸前の演技がなんとも絶妙でゾッと鳥肌が立った。たとえば、ラストの一点へ集中する映画にジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『望郷』があったが、『望郷』のラストはどちらかといえば不条理な瞬間であって、この『さすらい』の一瞬は自殺ではなく“殺人”だと思った。もしイルマが「アルド」と叫ばなければどうなっていたであろうか。そんなことを考えるのはまったく意味のないことかも知れないが、原題が「叫び」となっているからにはこの一点について考えるのは決して無駄ではないだろう。
 いま、村はデモ隊によって騒然としている。画面は朦朧としたアルドのカットと、目的意識を持って走る村人や警察官のカットがフレームの中で複雑にクロスして、不安定な状況を作りだしている。アントニオーニ監督がつくりだしたこのラストシーンは、覚醒することのできるアルドを表徴している。であるならば、“事故死”せずに助かる道がこの男アルドにはあったはずだ。
 アルドが鉄塔の突端へ上りきったとき、彼の遥か前方に田畑が燃えているシーンがあった。この鉄塔の突端でアルドが一〜二時間ぐらいボーとしていたならばそのうち自分を取り戻して、生き延びるべき道を見つけられたかも知れない。そして、「なぜ、田畑が燃えているのか。なぜ、むかしの仲間達が走りまわっているのか。なぜ、大勢の警察官が村にいるのか……ハハァ〜ン、村は飛行場の基地反対をしているのだ。よし、旅をしながら世間を見つめてきたこの眼で……」と、デモ隊へ参加してアルドが死ぬ気で体制と戦ったならば、もしやして良き指導者になれたかも知れない。だが、彼は革命家にはなれなかった。たとえば、母鳥の傍にいつまでもしがみついていて巣立つことのできない小鳥が、地上で鳴いた母鳥の声にうかつにも引きずられて真っ逆さまに墜落して死んでしまう。アルドとはそれだけの男だったのかも知れない。

 これは余談というか妄想だが、オーストリアで客死した男が長男であり、三番目の男は三男坊だとしたら……アルドは次男坊だろう。それもとびきりの甘えん坊だ。長男を死亡させた母親にとって次男のアルドは一家の大黒柱であり、彼に巣立ちさせるべく試練をあたえるための別離であったかも知れない。だが、母鳥が一人立ちさせるために巣の中の小鳥を遠くから呼んで羽ばたかせようとしたら、そのまま巣から落ちてペシャンコになってしまったというぶざまな物語であるかも知れない。が、ともあれ、ヒヨコのような大人げない一面もあるにはあったが、なんといってもアルド役のスティーヴ・コクランが見せるラストシーンのなりゆきは空恐ろしくて圧巻だ。なにげない日常のフッとした隙間へ忍びよる不確かで危うい瞬間。そんな瞬間の死に場所へむかいながら螺旋階段をしずかに上ってゆくアルドを追いかけるイルマは、もっと早い時点で声をかけるべきであった。それができないのであれば、様子をもっと見るべきであった。なのに、カメラのアングルはすでにドンのつまりの取り返しがつかない高さまで上りつめている。ここからがアントニオーニの真骨頂であり、アントニオーニの映画がはじまる。
 逃げ場所のない閉鎖的な空間にアルドを追いつめて、彼の大きい頭を不安定なまま映しだし、イルマのあたふたした姿をアルドの頭蓋骨へ共振させるかが如くに撮影してゆく。そして、その刺激によってフッとめざめた我々や主人公アルドが身体を180度回転させると、眼下にはアルドの片耳ぐらいの大きさになった小さなイルマが地上から彼を見上げている。が、カメラのポジションはすぐ逆転して、こんどはイルマの目線からアルドを見上げる格好になる。こうしたカメラの上下移動の戦慄感がニュートンの法則を暗示して、アルドの肉体が鉄塔の上で朦朧としたまま左右に大きく揺れはじめる。危ないな! と思ったその刹那、工場の鉄塔からのんびりと落下する。自殺のようであって事故のような、事故のようであって殺人のような不可解な物語であった。
 ストーリーを簡単に説明するといいながら、結局はだらだらと書いてしまった。しかし、いままで書いてきたことがはたしてオカルトやホラームービーよりも怖いかどうかは人によって意見もさまざまであろう。が、我々は無意識のうちにアルドのような過去を背負い込み、過去の奴隷になってしまうことがある。そして、その隙間の奥に眠っている急所へダーツの矢が見事につき刺さってしまうと、ときに致命的な傷をうけてしまう。だが、我々の存在とは本来は自由なのである。時の器が“英雄”になれるという莫大な状況を用意していてくれたにもかかわらず、アルドは革命家になれなかった。過去にとらわれ「ああッ、俺はもうおしまいだ」と思って自分の時間を見放そうとした隙間ヘ「わたしよ!」と魔性の声が割って入る。刹那、懐かしくもうっとりとからみつく声のする方角へ右手をかざして耳も肉体も貸してしまう。日常という罠のような断崖の淵で、甘やかな選択をうっかりしてしまう人間の脆さを見事に表現した映画だったが、人間が人間らしいのは存外そうした一面であろう。その先が見えてその先を辿る人間は、時に透明人間にされたり、鼻にもかからない変人あつかいにされたり、または、氷のような冷徹人間にされるか、ナザレの大工にさせられてしまう。
 このあたりが脳髄直撃型のオカルトやホラームービーより遥に面白くて、最高にサイコなのだ。

 あらためて、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の逝去を悼み、心より冥福を祈る。
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虎の尾を踏む男達
                    

外国旅行をするときにとても大切なものがある。それはパスポートだろう。身分や国籍を証明したり、保護してもらうための免状だが、むかしは日本の国内でもそうしたものが必要な時代があった。関所手形とか関所札と呼ばれるもので、身分を証明書するその札がないと、あちこちを自由に通行できなかった。

まぁ、このことは表社会のことであるが、裏社会には裏の世界のパスポートがあったと聞く。義理だとか人情というのも一つのパスポートであろうが、むかし気質の八九三や香具師には「お控えなさい」という仁義があった。この仁義の“型”こそが真のパスポートであった。膝の張りかた、腰の位置、腕や首の角度、指の語らい、目のくもり輝き、声の定まり。そんな超人間の意思と意地を切って見せることによって、訪ねた家の客人となる。
無駄のない、キワを歩く哲学存在。

旅は自分を腐らせないための装置であった。

だが、いったん客人となって草鞋を脱げば、家の親分から「白を黒」と言われれば「白も黒」であり、あらゆる有象無象の宿命を呑み込みながら、なおかつも、空っぽの自由人でいられるか 。。。。。。。?
場合によっては運命にもてあそばれる五郎太石となってボロボロにされようが、この仁義の“型”こそが、キワを歩く流れものたちの唯一、パスポートなのだ。
あたかも、『虎の尾を踏む男達』の弁慶が安宅の関で切った勧進帳の仁義、誠にみごとであった。



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デイヴィ・ジョーンズのオルゴール
 ぼくにとって携帯は、街角で公衆電話を見つけるのがうざっとくて買ったようなものだから、おのずと、電話連絡以外ほとんど機能していない。メールは使用しても、返信で「はい」とか「うん」とか「いいよ」ぐらいのもので、自分から送信する場合はパソコンから入力して送っている。着信音もスタンダードなものをいままで使用してきた。いささかハデな音をだすものとしては、アラームに使っているゴスペラーズの『ミモザ』ぐらいだ。
 ところが、最近になって着信音を変えてみた。

 映画パイレーツ・オブ・カリビアンの「呪われた海賊たち」「デットマンズ・チェスト」をそれぞれ観ていたので、昨日は新宿ミラノで「ワールド・エンド」を観た。二作目の「デットマンズ・チェスト」はいささかコミカル過ぎたが、「ワールド・エンド」は満足できた。この三作目は義眼のラゲッティや猿のジャックなどのに見せ場があったり、いつもちょっと気になるギブス航海士がうす汚れたテディベアを抱っこして(ライナスの安心毛布って感じ!?)眠っていたりと、意表を付かれて愉快だった。
 少しコミカル過ぎた「デットマンズ・チェスト」の中で、他のパイレーツを圧巻したのは、「深海の悪霊」と呼ばれて船乗りたちから恐れられているデイヴィ・ジョーンズやその眷族たちの登場であろう。苦悩するデイヴィ・ジョーンズを見ていると、ジュール・ベルヌの『海底二万海里』にでてくるネモ船長を思いだしてしまう。

 ぼくが携帯の着信音を変えたのは、このデイヴィ・ジョーンズの“忘れ形見”であるらしいオルゴールから流れる、せつないまでの陸地への郷愁音に共鳴したからである。

 無論、ぼくは携帯の機能などさっぱりで、また、知ろうとも思っていないからまったく分らない。ある日、「Davy Jones-オルゴールイントロ版」が娘の携帯に入力してあって、彼女がいろいろな曲を選択していたときにそのオルゴール曲が流れた。ぼくも自分の携帯にアップしたいと思った。
 映画の中でこの曲は、ネモ船長がノーチラス号の艦内で一人パイプ・オルガンを弾いていた時と同じような格好で、蛸の触手のようなヒゲを操りながら、彼がパイプ・オルガンを奏で終った刹那、突然に鍵盤の上に置いてあった銀のオルゴールが哀愁をただよう誠にロマンチックなメロディーを響かせた。それが「Davy Jones-オルゴールイントロ版」の曲であった。
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 今後この曲はぼくを癒してくれるであろう。日常という旅の途上で道ゆく人を眺めながらカフェで珈琲を飲んでいるときはレベル-1で、公園の木陰で一服しながら愛用のヴィテルを口にふくんで休む時はレベル-4で、たとえばヴードゥ教の巫女ティア・ダルマがツインの片一方である銀のオルゴールを開いた時のように、ぼくもプラスチック製の黒い携帯の蓋を拡げながら、デイヴィ・ジョーンズが思慕している“愛”の彼方にも似たところへ彷徨いつつ、たった30秒間ではあるが、この甘いメロディーの帆船に乗って深い深い海のゆりかごへと沈んでゆける。
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グローバル・ビレッジ
 ぼくのパソコン元年は2000年だった。以来、飽きることなく使ってきたし、今後も使い続けるだろう。まさしく、スタンリー・キューブリック監督の映画『二〇〇一年宇宙の旅』の猿が勝利の雄叫びをあげながら空高く投げ上げた骨であり、宇宙船であり、ペンであり、マウスであって、バカでかかったディスカバリーのHAL九〇〇〇はパーソナルなものとなって、彼女の子供等が今では我が家にも何人か住みついている。
 最初のころPCは、ぼくにとって絵を描くための道具でしかなかった。だから、それ以外に使用することはなかったが、やがてEメールをやったり、原稿の受渡しなどをしているうちに、生意気にもホームページを作成したくなった。そこで、二年ほど前に友人のイラストレーターであるY 氏に相談をして、指導していただきながらマニュアル本どうりにコツコツやっているうちに出来上がってしまった。もうこうなるとPCの虜だ。眼が疲れようが肩が張ろうがオタク状態に近い顛末になってしまって、ついにはブログへと至ってしまった。
 そこで身近な友人にムーバブルタイプを紹介してもらったが、難しそうだったので簡単なものに変更し、またもやY 氏に電話で誘導していただきながら、なんとか本日カッコつけることが出来た。が、しかし、たぶんなまけもののブログとなるだろう。
 ところで、PCというめんどうなものになぜ自分がこうして入れ揚げているのだろうか・・・。
 ときどき思うことであるが「20世紀には繁栄したであろう我が国がはたして21世紀を生きのびてゆけるのだろうか」という不安感が最近とみにある。自分たちの利害しか考えない政治家やそれに群がる有象無象のやからが私利私欲の臭い息で膨らませたバルーンを揚げて意気揚々とはしているが、グローバリゼイションどころか、西欧やユーラシア大陸の寄港地からはじきだされかかっている。こんな夢も希望も持てない哀れな国になり下りかかっている現代、PCは自分の眼と脳と腕を使った分だけの臨場感が確実にある。しかし、だからそれがどうなんだと言われればそれだけのことではあるが、挫折とは無縁の坊んちが浮游層の票を狙って甲高く叫んだ契約を真に受けて、「失敗しても再チャレンジできるんだ!」などと言う偽政者の寝ぼけた夢をまさぐるぐらいなら、目の前のキーボードを叩きながらグローバル・ビレッジへと向って発信していたほうがよほどリアルだ。
 だが、人は頭脳の延長ともいえるコンピューターの神経を操って、個々の存在価値をその空間へ延ばしながら、地球を一つの世界村へと置き換えてゆく事ができるのであろうか。
 PCとは空間の拡大だが、そこにまた大きな落とし穴が待ちかまえている。
 
| 映画 | 17:55 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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