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美しき青きドナウ
僕は僕のことを知っている。確かにこの女は僕のことを置いてけ堀にして、誰かさんとのうっとりした情交に酔いしれながら、かすかな寝息のまま、腹や手足をひくひくとひきつらせ、歓喜な夢の涯にいまだ溺れて眠っているが、はたしてそれは事実だろうか。
 
暗闇へ溢れでた匂いはこの女から発散されたものだけではない。さきほどから窓辺で燃えている蝋燭は蜜蝋で、枕元で燃えてるサンダルウッドのキャンドルは甘やかだ。それらがじりじりとして淫乱な匂いを誘うのであった。蜜と涎と体液と、邪念の匂いを嗅ぎながら、古いオルゴールの蓋をさっき開いて鳴らそうとしたのだったが、振動板に爪がひっかかってでもいるせいか、いつまでたっても鳴らなかった。刹那、ひとつの窓が突然に開いて、蝋燭の炎が吹き消えてしまった。びっくりした弾みに、オルゴールは鳴った。シリンダーが回転しだし、同音反復の澄んださざ波のトレモロからのびやかな主旋律とともにテンポの良い円舞曲がカタカタと軽やかに流れはじめた。(僕は僕のことを知っているのだ)
 
そう、こんなふうに白い肌を見せながら、雪のように白いシーツに横たわっている女を見ていると、僕は僕のことを想出す………

窓が開いて冷たい風とともに粉雪が舞い込んできたのと、金属音の響く音に目覚めたのだろうか。氷河色した眸を曇らせてメムリンクがひとつ伸びをした。
「寒いわ」と甘えながら、
「あら!」と言って、
「これ、『美しき青きドナウ』よね」と、言った。
「ああ、そうだよ。ドナウだ! 昔なんだが、母に連れられて、と言っても養母のバートリ・ゾエヘレナなんだけど、つまりはエリザベートバート伯母様の妹君、その人に連れられて………」
ここまで話しておいてから、さっき風で消えた枕元のサンダルウッドリに火をふたたび灯し、窓を閉めて暖炉の薪を燃やそうとしたが、随分てこずって時間がかかってしまった。寝台へ戻ってみると、膝を抱えるようにしながらメムリンクはまた眠っていた。
 
蝶の形のハンドルをいっぱいに捻っておいてから蓋を開けた。こんどはスムーズに鳴りだしたが、雪の降っているこんな寒い日に、ドナウの旋律を聴きながら、暗い場所で白い裸体を眺めていると、あの日の〈れ、れ、れの、れ〉の遠景を想出す。
 
-------------母は仰向けにころがって、恥ずかしいところを羞じることもなくさらけだし、雪の原で悪い音楽でも聴くかのような恰好をしながら、幾人もの男たちによって温められていた。やがて男たちは笑いながら立ち去って行ったが、母を中心とした場所だけが黒いドーナツ状に雪が溶けていた。それが血であったのか、洋服であったのか、土であったかは見当もつかないでいた。それも束の間ことであって、母の白いからだに白い雪はやがて降り積もって、雪は肌と溶けあい、なにもなかったかのように母は消えていった。
 
男は父であったのかも知れないし、狼であったかも知れないが、暗い夜の部屋の寝台を包み込む白いシーツの上で仰向けになった白い肌をした女の裸体に巡りあうと、僕はこうしていつでも固くなって、相手の女を退屈にさせてしまうのであった。
 
養母に買ってもらったこのオルゴールはいま美しき青きドナウのさざ波を刻んでいる。オルゴールには秘密があって、ハンガリーの礼拝堂へ養父ベレターノ・コルヴェヌスと養母バートリ・ゾエヘレナに連れられて、久しぶりに“親子三人”がめづらしく揃って礼拝した日、その帰り道にブダの町角で買ってもらった一品だった。

その日は三歳の誕生日で、マーチャーシュ教会宮廷礼拝付少年聖歌隊がミサ曲を歌い終ってから、なにかの拍子に「ドナウの唄」を美しい声で歌った。その時、それまでは一言も口を利かなかった僕が、その曲を聴いた途端に“ママ”と口を利いたらしく、養父や養母たちは喜んで、ドナウの曲が入ったオルゴールを買い与えてくれたのだった。宮廷礼拝付少年聖歌隊の歌声を聞いたとき、モンゴロイド系タタール人であった母が仰向けになってころがっていた場所は、牝の狼に僕が運良く助けられたがために、あれはトランシルヴァニア・アルプスの裾野あたりの山の辺の道だと思っていたが、ブカレスト近くか、あるいはカララシあたりのドナウ河口沿いにあった湿地帯か堤防であったと、無残にも、天使のように美しい声をした少年たちに導かれながら、無意識のままに知らされてしまっていた。
 
これが僕の知覚するぼくの血の記憶なのだ!


*ルーマニア国物語『トランスシルヴァナイト』(きみの乳ぼくの血)のあらすじは、こちらのトランクを開けて下さい。全文を読んで下さる方は、フロント・ページ左にある “CATEGORIES” の列の「トランスシルヴァナイト」を開き、下から順次上に向かってお読み下さい。主な登場人物はこちら。


| 東欧奇譚/未完 | 00:13 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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