CALENDAR
S M T W T F S
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< March 2024 >>
ARCHIVES
CATEGORIES
MOBILE
qrcode
<< 「 e 」音と「 i 」音 | main | への山とぺの月 >>
サイコな『さすらい』
大好きだったイタリアの映画監督ミケランジェロ・アントニオーニが、30日に死去した。冥福を祈る。合掌


 アントニオーニの『さすらい』を見ていると、オカルトやホラームービーの恐怖がなんとも稚拙に見えてならない……という書きだしではじめると、どんなに怖い映画だろうと早とちりする人がいるといけないので誤解のないように先に述べておくが、そうした意味での恐怖映画ではなく、下手をすればとても退屈な映画かも知れない。なぜであれば、イタリアという洒落た国のイメージがどこまでいっても貧しく泥だらけで、しかも、雨が降ってぬかるんでいる。映画『さすらい』の原題名は「絶叫」だが、表向きにはそのような叫びもなく、普通といえば普通の人間である主人公アルドという男が、内縁であった妻との別離によって刻一刻と虚無の世界へむかって静かに遍歴してゆくロードムービーなのだ。
 簡単にストーリーを説明してしまえば、場所は北イタリアのポー河に近い精糖工場に務める機械技師アルド(スティーヴ・コクラン)が、十年近く同棲していたイルマ(アリダ・ヴァリ)という女性から突然に「愛せなくなった」と宣告される。このイルマという女性はミステリアスなところがあって、たとえば多情だとか……母性の象徴だとか……そういってしまえば簡単だが、そのことはまた別の問題であって、この場合は表立って重要でない。だが、都合上述べておくと、イルマにはオーストリアへ出稼ぎにいっている夫があって、夫の出稼ぎ中にアルドと生活してしまっている。そして、第三番目の男をすでに見つけていて、夫がオーストリアで客死したというタイミングをみはからってアルドと別離する決心をする。ドラマはここからが本番で、主人公アルドの長い漂泊がはじまるのだ。
 別れるとはいっても、そう簡単にアルドはイルマへの思いを断ち切ることができず、家も職も捨てて、幼い娘のロジナを連れてあてのない旅へとでかける。機械技師の腕でそれなりの日銭を稼ぐことはできるが、どこへ流れていっても、どんな女の世話になろうとも、イルマへの情愛が足に心へと絡みついて思うように立直ることができないでいる。落莫としている中、自分だけならなんとかなるだろうと思って娘を故郷の村へ帰してしまうが、結局は旅に疲れたアルドは、故郷の村へ知らずしらずのうち戻ってゆく。だが、その村にもイルマにも確かな絆を見つけることができず、彼は自分が務めていた精糖工場の鉄塔へ上ってゆく。いまでは気が抜けてしまっているアルドの後を追いかけてきて叫ぶイルマの声をタイミングに、アルドは聞き覚えのある声に引きずられるようにしながら彼女の足元へドスンという鈍い音を残して落下する。
 「なんだ、たわいない色恋沙汰の安っぽい世間話じゃないか。オカルトやホラームービーの戦慄より怖いなんて冗談じゃない」とせせら笑うか憤慨するか知れないが、ぼくにはそう思えたのだからしかたがない。

            *発売元:株式会社アイ・ヴィー・シー IVCF-5014 DVD

 イルマとアルドはなぜ破綻したのか、イルマにはオーストリアへ出稼ぎにいっている夫があるのになぜアルドという男と同棲しているのか、なぜ三番目の男をつくったのか、そもそも幼い娘はだれの子供なのか、アルドにも妻がいたのではないだろうか、「なぜ、なぜ」と疑問はつぎつぎと浮かんでくるが、映画はそんなことをすこしも問題にしてはいない。だからといって不自然でもなく、むしろ、それらを凌駕するだけの質や眼差しが随所にあった。それがなんであるのか定かではないが、たぶん、アントニオーニは平凡な日常のつじつま合わせを問題にしているのではなく、アルドという主人公を放浪させることによって〈アルド=人間〉の内的世界を我々へさらけだし、これでもかこれでもかと意識の底へ下降してゆくことが目的ではなかったか。それと同時に、人は生きてゆくためには日銭を稼がなくてはならないという〈社会性=日常性〉の渦の中で、さまざまな社会のあらゆる人間たちとアルドという一粒の人間を結びながらあぶりだし、目には見えない内的な世界を目に見えるように解体しながら露出させてゆく。たとえばこの男がなに不自由ない裕福な家庭の人間であって、自家用車に娘を乗せながら髪をなびかせて旅をするのであれば人生楽なことであるが、技師とはいっても爪の間に油をためこんだ機械工であり、旅のトランクにも、スボンや上着のポケットにもプライベートな余裕などまったくない男なのだ。旅の途上、知らない女が用意してくれたバラックで幼い娘と寄り添いながら眠ったり、ヒッチハイクをしながらかつかつと寂しい旅をしつづけている。そんなアルドは結構まじめな人間だが、さまざまな女との出合いによって意識はいやがうえにも起伏して、かえってやり場のない孤独感が増してゆく。むかしの恋人に……、ガソリンスタンドの女主人に……、作業場の雇主である男の情婦らしき女に……、おもわず心が触れあって危うい関係になるが、どの女性とも上手く噛み合うことができず、渇ききった咽喉をいたずらに絞め上げてゆくだけだった。むろん、孤独なのは女性たちもおなじことであって、ことに、雇主の情婦らしき女の生活は一見派手に見えるが、一皮むけば哀しい女で「身の上話をすれば一ヶ月はかかる」といらだちながら、不安定な精神状況を赤裸々に見せてアルドとわかち合うこともできず絶望する。

 先ほどから同じことを何度もいって恐縮するが、この映画がなぜオカルトやホラームービーよりも怖いのか!! もうとっくにこのページを放り投げてしまった人もいるだろうが、酔狂な人は騙されたと思ってもうすこし辛抱をしてほしい。

 アンリ・ベルクソンというフランスの哲学者が『物質と記憶』の中で面白いことをいっていたので、『さすらい』のラストシーンにそのことを無理やりこじつけてみたくなった。
       
 さすらいの遍歴に疲れはてたアルドが村へもどってる。村は飛行場の建設予定地になっていて、田畑が滑走路にされてしまうため、農民と労働者階級が団結しながら集会やデモを行いっていた。アルドはそんなことは上の空でイルマを捜しつづけるが、旅の途中で別れた娘のロジナが「ママ」といって入っていった村の家の窓の奥の中を覗いて見るとイルマがそこにいて、赤ん坊のオムツを変えていた。ベルクソン流の話はここからだで、ベルクソンは「現在という瞬間にはそれ自体としての内容はほとんどない」といっている。赤ん坊のオムツを変えているイルマを見た瞬間、アルドが見た赤ん坊は他人の赤ん坊であったが、その光景は、なんどとなく過去に見つづけてきた娘ロジナのオムツを変える愛らしいイルマの姿であって、まぎれもなく幸福に満ちあふれた過去の記憶が他人の女房になってしまった女(イルマ)の住む家の窓の奥に追認してしまったのだ。それを見たアルドは朦朧としたまま、幸福だった日々に朝な夕なと反復をくり返した精糖工場へ向かい、夢遊病者のような格好になったまま、工場の敷地の中にある鉄塔へふらふらと上ってゆく。この時点で、アルドの現実は回想によって侵食され、たくましい五体は眠り男のように無能な枯れ草となり、冷たい鉄塔の中空で溺れかかっている。刹那! 地上から「アルド」と叫ぶイルマの声が聞こえてアルドの脳髄は一挙に覚醒するが、無能となった肺や心臓がその一瞬の刹那に追いつくことができず、酸欠状態のままふわりふわりと宙を泳ぎながら浮游して、そのままドサッとした鈍い音とともにイルマの足元へ落下して死ぬ。映画はこの一瞬で終ってしまうが、アルド役のスティーヴ・コクランの演じた生と死をわける落下寸前の演技がなんとも絶妙でゾッと鳥肌が立った。たとえば、ラストの一点へ集中する映画にジュリアン・デュヴィヴィエ監督の『望郷』があったが、『望郷』のラストはどちらかといえば不条理な瞬間であって、この『さすらい』の一瞬は自殺ではなく“殺人”だと思った。もしイルマが「アルド」と叫ばなければどうなっていたであろうか。そんなことを考えるのはまったく意味のないことかも知れないが、原題が「叫び」となっているからにはこの一点について考えるのは決して無駄ではないだろう。
 いま、村はデモ隊によって騒然としている。画面は朦朧としたアルドのカットと、目的意識を持って走る村人や警察官のカットがフレームの中で複雑にクロスして、不安定な状況を作りだしている。アントニオーニ監督がつくりだしたこのラストシーンは、覚醒することのできるアルドを表徴している。であるならば、“事故死”せずに助かる道がこの男アルドにはあったはずだ。
 アルドが鉄塔の突端へ上りきったとき、彼の遥か前方に田畑が燃えているシーンがあった。この鉄塔の突端でアルドが一〜二時間ぐらいボーとしていたならばそのうち自分を取り戻して、生き延びるべき道を見つけられたかも知れない。そして、「なぜ、田畑が燃えているのか。なぜ、むかしの仲間達が走りまわっているのか。なぜ、大勢の警察官が村にいるのか……ハハァ〜ン、村は飛行場の基地反対をしているのだ。よし、旅をしながら世間を見つめてきたこの眼で……」と、デモ隊へ参加してアルドが死ぬ気で体制と戦ったならば、もしやして良き指導者になれたかも知れない。だが、彼は革命家にはなれなかった。たとえば、母鳥の傍にいつまでもしがみついていて巣立つことのできない小鳥が、地上で鳴いた母鳥の声にうかつにも引きずられて真っ逆さまに墜落して死んでしまう。アルドとはそれだけの男だったのかも知れない。

 これは余談というか妄想だが、オーストリアで客死した男が長男であり、三番目の男は三男坊だとしたら……アルドは次男坊だろう。それもとびきりの甘えん坊だ。長男を死亡させた母親にとって次男のアルドは一家の大黒柱であり、彼に巣立ちさせるべく試練をあたえるための別離であったかも知れない。だが、母鳥が一人立ちさせるために巣の中の小鳥を遠くから呼んで羽ばたかせようとしたら、そのまま巣から落ちてペシャンコになってしまったというぶざまな物語であるかも知れない。が、ともあれ、ヒヨコのような大人げない一面もあるにはあったが、なんといってもアルド役のスティーヴ・コクランが見せるラストシーンのなりゆきは空恐ろしくて圧巻だ。なにげない日常のフッとした隙間へ忍びよる不確かで危うい瞬間。そんな瞬間の死に場所へむかいながら螺旋階段をしずかに上ってゆくアルドを追いかけるイルマは、もっと早い時点で声をかけるべきであった。それができないのであれば、様子をもっと見るべきであった。なのに、カメラのアングルはすでにドンのつまりの取り返しがつかない高さまで上りつめている。ここからがアントニオーニの真骨頂であり、アントニオーニの映画がはじまる。
 逃げ場所のない閉鎖的な空間にアルドを追いつめて、彼の大きい頭を不安定なまま映しだし、イルマのあたふたした姿をアルドの頭蓋骨へ共振させるかが如くに撮影してゆく。そして、その刺激によってフッとめざめた我々や主人公アルドが身体を180度回転させると、眼下にはアルドの片耳ぐらいの大きさになった小さなイルマが地上から彼を見上げている。が、カメラのポジションはすぐ逆転して、こんどはイルマの目線からアルドを見上げる格好になる。こうしたカメラの上下移動の戦慄感がニュートンの法則を暗示して、アルドの肉体が鉄塔の上で朦朧としたまま左右に大きく揺れはじめる。危ないな! と思ったその刹那、工場の鉄塔からのんびりと落下する。自殺のようであって事故のような、事故のようであって殺人のような不可解な物語であった。
 ストーリーを簡単に説明するといいながら、結局はだらだらと書いてしまった。しかし、いままで書いてきたことがはたしてオカルトやホラームービーよりも怖いかどうかは人によって意見もさまざまであろう。が、我々は無意識のうちにアルドのような過去を背負い込み、過去の奴隷になってしまうことがある。そして、その隙間の奥に眠っている急所へダーツの矢が見事につき刺さってしまうと、ときに致命的な傷をうけてしまう。だが、我々の存在とは本来は自由なのである。時の器が“英雄”になれるという莫大な状況を用意していてくれたにもかかわらず、アルドは革命家になれなかった。過去にとらわれ「ああッ、俺はもうおしまいだ」と思って自分の時間を見放そうとした隙間ヘ「わたしよ!」と魔性の声が割って入る。刹那、懐かしくもうっとりとからみつく声のする方角へ右手をかざして耳も肉体も貸してしまう。日常という罠のような断崖の淵で、甘やかな選択をうっかりしてしまう人間の脆さを見事に表現した映画だったが、人間が人間らしいのは存外そうした一面であろう。その先が見えてその先を辿る人間は、時に透明人間にされたり、鼻にもかからない変人あつかいにされたり、または、氷のような冷徹人間にされるか、ナザレの大工にさせられてしまう。
 このあたりが脳髄直撃型のオカルトやホラームービーより遥に面白くて、最高にサイコなのだ。

 あらためて、ミケランジェロ・アントニオーニ監督の逝去を悼み、心より冥福を祈る。
| 映画 | 13:22 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
コメント
そちらドイツですと、地域性からいってベルイマンのニュースの方が早いのでしょうね。こちらはアントニオーニが先でした。
肌寒いとか、風邪さんと仲良しになりませんように。
| marine | 2007/08/02 10:16 PM |
アントニオーニ。ベルイマン。奇しくも同日に逝ってしまいましたね。

こちらで記事を拝見したときはアントニオーニ死去の話はしらずベルイマン映画の思い出を掘り起こしていた所でした。


| SeBo | 2007/08/02 7:12 PM |
コメントする









この記事のトラックバックURL
トラックバック機能は終了しました。
トラックバック