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イリアス・オデュッセイア/ 曳航


アケロンの川がながれる夜の国からもどったその男は、帆を順風にまかせながらセイレンの島へむかって船を進めていた。島へ近づくにつれて風はやみ、海が凪いでいった。またもやなにかが死んだように眠っている光景をみとどけたその男は、部下たちに帆をおろすように命じて白い帆布で船の甲板を巧みに覆いつくした。船はまるで死者が羽織る経帷子のように静まりかえってしまったが、甲板と帆の隙間では船乗りたちがザワザワとしながらみな隠れていた。セイレンの妖しい姿や歌声を見ないよう聞かないようにと、かねてから用意しておいたロウの塊で耳の穴を封印していたからである。そんな儀式も終わると、船乗りたちは猫背になって櫓を漕いだ。ただ一人、艦長であるその男だけは耳にロウの蓋をすることもなく青銅の錨のうえで身動きできないほどきつく縛られていた。男は腹這いになって隠れながらも、帆と甲板の隙間から船の舳先にしるすホルスの護符のようなギラギラした眼をセイレンの島へむけて、いまにも歌われるであろう歌声に注意をはらった。帆船の後方には小さな救命ボートが一艘ゆらゆらと曳航されていたが、ボートには艦長に似せた泥人形が座っていた。

ところが、セイレンは歌わなかった。

オデュッセウスは狡猾なペテン師ともひねくれ者とも多重思考のできる天才とも呼ばれていたから、さすがの歌姫も歌わなかった。その男の裏をかいて沈黙をまもりながら、あと百年を生きるために、上等な知将からしぼりとる血のぶどう酒をどのようにして手にいれようかとそのことばかりを考えていた。まどろっこしい歌よりも手の内から甘く匂うめしべのような磁力を発散させて、船の羅針盤を狂わせた。あわや岩礁に船がたたきつけられるその刹那! オデュッセウスは錨のうえで親指を立てた。すると一等航海士のエウリュアロスが救命ボートのバランスを崩すためのロープを引張った。知将に似せた泥人形はするするっと滑って海のなかへ消えていった。のがすものかと、セイレンは海へ飛び込んだ。

船はその隙にじょうじて遁走したが、間近にてその男がみたセイレンの美しい横顔は、先のトロイア陥落の折にあらゆるものをむしりとられてもなお深淵なる苦海を泳ぎつづけなくてはならなかった王女アンドロマケそのものであった。(ぼくのイリアス・オデュッセイアより、絵は「曳航」2018)






| 贋作ギリシャ絵物語 | 17:54 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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