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ワニ皮の男と金魚のポピンズ*夕霧のなかで Vol.017



疲れに疲れ、よれによれ。憑かれに憑かれ、ひび割れていた。
もつれ、ほつれ、やつれ、ねじれ、よじれ、くびれ、ただれ、さびれ、ささくれ、しおれていた。あるいは、涎をたらしつつ。まくれ、はがれ、みだれ、むくれ、ちぎれ、つぶれ、よごれ、まみれてもいた。そしてときおり、「グアー、グアー」と泣き声をあげながらくぐもった声で本繻子のような闇夜のカーテンを引き裂きつづけていた。

「おれの体はいったいどのようになっているのであろうか?」
と痙攣のなかで、男は自問した。
爪は鋭くのびて、皮膚はひどくカサカサと乾燥をして鱗立ちていた。
畢竟、父を父ともおもわないで過ごしてきた半世紀におよぶ讐(むく)いであろうか、あるいは飛ぶ鳥の腹をかっさばいては安易な易占で世の人々を惑わしてきたことへの罪の深さであろうか。であるならば、うまい汁だけを飲みつづけているオクトパスフェイスの丘に群がったのっぺらぼうたちはいったいどのような讐いをうけているというのであろうか? 極悪の隈取へ、あたかも善人ぶった行道のねり供養仮面をすぽりかぶりながら、なにくわぬ顔で平然と、菩薩や仏をきどってみせているではないか。そんなインチキな菩薩や仏に手をあわせて持ちあげる輩も輩だが、災厄のまえにあっては、「これは他人ごとではなく、あなた自身の問題なのですよ」と馬鹿げたことを口にして、「もの言えば唇寒し秋の風」と、男は急にオクトパスフェイスの連中へむかって唾したものがいまじぶん自身にベッチョリと落ちてくる不快感をいやおうなく受けとめていた。と同時に、青白くはだけた胸もとに血の滲む鮮やかさをのこしたまま水面へと浮き上がっていった、あの橋の欄干から夜の川中へ飛び込んだあわれな青年のことをおもわずにはいられなかった。

似非な菩薩が撒きちらす散華の毒性によって、未来ある花々は、総じてむなしくも隠花植物の翳りのようになって萎んでゆかざるをえない。そうしたフツーの人々は、この男がワニになったように、あるいは泣きじゃくる鬼となって、あるいはまた、セシュウムによっていびつにされたポレン(花粉)となって、地獄の際の吹きだまりに群れてくらくらと彷徨いつづけながら、じょじょに、じょじょに、人との絆をたもつことができなくなってこの世から離脱してゆかざるをえないことを悟りだす。よもやあの光景は………、月の光に照らしだされた中洲の川底に白く折りかさなって眠っていた影の謀反とは、水鳥の飛翔とは存外そのようなものであったやもしれない。

ポポとかわいらしい音をたてた銀木犀の星屑がしずかに流れおちて、男は幼かったころに聞き知ったことのある戯れ歌を「グアー、グアー」と喉の奥で口ずさんでみた。

   浄光坊がじょうずに絵を描いて
   覚照寺が隠して
   遍浄寺が屁こいて
   西光寺が探して
   刑部神社(おさかべじんじゃ)がギョロチン、ギョロチンゆうとった

銀木犀の甘やかな花びらが一夏(いちげ)の涯の細道をポポと散りおちて、またもちりちりと散りおちていった。

(「ワニ皮の男と金魚のポピンズ」黙示録編 夕霧のなかで/終)






このたびの大震災や大津波などの自然災害を避けることはまずもって難しかったであろうが、原発事故は人災。その人災を嘆いていないと言えばまっぴらなウソとなってしまう。しかし、思考軸のブレたリーダーたちを前にしたとき、その粗末さに、嘆きよりも呆気にとられてしまうのは私だけだろうか………。これまでのリーダーたちに責任の自覚はまったくなく、国内外の諸問題はすべて棚上げにしたまま、どれもこれもドンデン返しのうやむやとしてきている。ましてや、いまだ責任をはたした者を知らない。よしんば知ったところでそれもせんないが、後へ続かないための戒めとしては必要であろう。だが、彼らはいつでも「ああ言えば、こう」「こう言えば、ああ」、「やった」「やらない」と呑気なものである。ゆえに、原発事故は人災なのだ。

そうした人災のあとさきに一度づつ、私は“甘やかな村”へ旅立ったことがある。

一度目の旅は、この眼前を通りすぎていく“ものごと”の速さと消滅………。そのことへの無関心ぶり。オモシロければいい、売れればいいという幼稚すぎる世の謀り、それらをセセラ笑っての旅であった。二度目の旅は、またぞろの処ではあったが、原発災害による私なりの傷心を癒す旅でもあった。その日から今日を生きたとき、街はよそよそしいほど蓋をして静かすぎることが気に障る。

遠い日、埒もなくオートバイに気狂っていたころ、ポール・ヴィリリオの速度学に強い影響をうけて上ずったことがあった。しかし、そのロマンチックな「ドロモロジー」の哲学をもってすら追いつけなほどに進んでしまった“超高速度学”の変容ぶり。あるいは“屁糞金力学”という不可解なヒエラルキーを前にしたとき、ふと、コトバが口より溢れでる。吐かれたコトバはセシュウムによって爛れ絞りだされたコトバかも知れないが、これがいまの私だからしょうがない。生き物はすべからく、吸って吐いてまた吸ってしか生きられないがごとくに、吸ったものはそのお返しとして、たとえ目をそらせておきたい吐瀉物であろうが吐かざるをえないであろう。

今日も書くことが考えを生み、考えが言葉をさがそうとして揺らいでいる。高々と冴えた秋空を舞う在るか無きかのポレンのごとくに。

日刊ときどきは休刊の「妖精新聞/ワニ皮の男と金魚のポピンズ(夕霧のなかで)」を読んで下さった方々には心から感謝申し上げます。この物語はまだまだ続きますので、新たに読んでくださる方々をふくめ、今後ともどうか変わらぬご贔屓を宜しくお願い申します。

二〇一一年十月二八日  M,






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