2011.06.08 Wednesday
雪飴じゆとて!
すきな詩人のすきな詩「軍艦茉莉」の表題を失敬してブログのサブタイトルとしてきましたが、このたび、「軍艦茉莉號」から「雪飴じゆとて!」に変更しました。
すきな詩人とは、右脚喪失の安西冬衛です。
片足切断の失意からくる倒錯だろうか、無気力な堕落感の中にもほのかに匂うスリリングな暴力性があって、その“かたち”は地獄でも天国でもなく、文学的な幻想に彩られた甘美なまでの迷宮性であり、波動であり、エロスであり、タナトスであって、なにもかもがわたし好みのポエジー(お伽話)でした。
そうしたお伽話にみなぎった力は負であろうがなかろうが、軽妙でチャカポコと地に足のついかない小洒落れた浮世とはまったく無縁なリアリティーが充満していて、些細な、たとえば脚の組みかえひとつにおいても高揚した美しい(あるいは爛れた)時間的推移があって、わたしをいつでも歓ばしてくれました。しかし、このたびの大震災と原発事故で、浮世の風向きや価値観は一八〇度変わってしまいました。
「東日本大震災」以来、さまざまなエッジで毎日詩を書いてきましたが、いまのじぶんを牽引してくれるのは安西冬衛の風じゃないなと思いました。
あほくさい修羅
おまえは通りすぎたね
又三郎だろ
しってるよ
かぜとゆききの
風の又三郎だろ
たいへんだったね
花巻から
やくもたつげんぱつの
あほくさい修羅をぬけて
銀河鉄道からタンゴ鉄道へ
裸足のまま乗りかえて
ゆらの川辺の鬼の橋をわたり
こんなところへまできてくれたんだね
おまえひとりで
(たんごぎゃらくしぃえくすぷれす)
これからはどこへゆくのか
にがにがしきなみだをふりはらい
ここは丹後の
ひとさらいの国だけど
かぜにさちあれよ
ひとにさちあれよ
くににさちあれよ
どっどど どどうど
どどうど どどう
鬼も泣いてる
2011.04.14 Thursday 平成無常論的エコロジカル詩集「TANGO」より
「雪飴じゆとて」とは宮沢賢治の詩「永訣の朝」のなかの「あめゆじゆとてちてけんじや(雨雪とってきて下さい)」から抜粋したものを「雪飴=アトリエ・スノードロップ」へと強引にかぶせました。「けんじや」とは方言で(〜して下さい)という意を作家の境忠一氏がご自身の著書「宮沢賢治の愛」のなかで賢治の自注からと述べられていましたが、「じゆとて」の「じゅ」については不明です。しかし、言葉のニュアンスからは「ギュッとつかんで」のような印象があります。また、スノードロップの花言葉は「逆境の中の希望」という意があります。つまるところ、当ブログのサブタイトル「雪飴じゆとて!」とは、「スノードロップの花(希望)はギュッとつかんで」となります。(手前味噌だべ〜ぇ!)
「あめゆじゆとてちてけんじや(雨雪とってきて下さい)」は賢治の妹とし子が臨終の床から兄の賢治にむかって嘆願した最後の言葉です。これによって、賢治はその雨雪をとるために病室をでてゆきますが、michihico み組 blogに「雪飴じゆとて!」と銘々した理由は、「希望はギュッと!」のような、そんな応援の風を、黒い雨で汚れてゆく、黒い風で汚れてゆくかけがいのない“我々の国土”へむかって、可憐で清らかな風をしっかと吹かせてみたかったからです。(フフッ! スノードロップの花言葉には「あなたの死を望みます」という隠された凶器が一つ秘そんでいます。可愛いばっかじゃないんですよ)
どっどど どどうど、どどうど どどう。
わたしの吹かす風なんぞ知れてますが、賢治の力を借りた応援の風はわたし自身のためであり、無論、金の亡者や権力者等のためではなく、賢者であられるあなた方のものです。
*Facebookをはじめました。