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ランパリータと呼ばれた娼婦と鯨


人生とは旅そのものですが、定まったところで生活していると、そのことを案外忘れてしまいます。そして人生の縮小版である“旅”をしたとたん、自分とは誰でもない存在であることを知らされます。地位とか名前とか、親や子供や妻や夫との関係は希薄となって、回遊の本能のままに生かされてゆきます。逆説的にいえば、このことは日常生活においても同じだということです。

話しが少し大袈裟になってしまいましたが、ルイス・ブエンソ監督の映画『娼婦と鯨』(2004年/アルゼンチン=スペイン製作)はそのようなことを考えさせてくれます。

2003年のスペイン、乳ガンに冒されて人生の岐路に立った女性作家ベラは夫や子供、恋人と別離して、1933年にブエノスアイレスで起きた出来事を取材します。ベラは乳ガンという苦悩をかかえたまま、スペイン内戦で命を失なった写真家エミリオとその恋人ロラの恋路をパタゴニアにあるバルデス半島に取材するうちに、過去と現在とを往き来しはじめます。時空はよれてねじれてゆきますが、整合性を追うことはあまり重要ではないでしょう。映画にはよくあることですから筋道を根掘り葉掘りとバカ正直に問い正そうとすればするほど、服を着たままで海へ入ることを誘うロラがそれを嫌がったエミリオにむかって「ポケットのお金を濡らすのが怖いの」と挑発したように、真に大切なものの前で、我々はエミリオ同様に立ちすくむほかありません。そんなことよりむしろ、どのような時代であっても変わることのない人間の歓びや哀しみの本性をどう嗅ぎ分けるかということを感じることこそ、この映画『娼婦と鯨』の見どころではないだろうか。

妙なタイトルである『娼婦と鯨』には盲目のバンドネオン奏者スアレスという男が登場します。彼は写真機という機器を通しながら人をたえず眺めているエミリオとは異なって、気配や匂いから過剰なまでの情報を入手して、本能的に人へと迫ります。その生き方はけっして優等生ではありませんが、観るものを引き付けてやみません。エミリオの恋人ロラもスアレスの膝の上で“シ”の音や匂いを発散させながら、ミファソラと身をのけぞってロ短調まがいの曲調を小刻みに震わせ悶えくり返します。そんなロラとベラは相似形をとりながら、現実世界を生きているベラ(あるいは観客)はもう一人の自分自身と徐々に向かいあってゆくこととなります。向かいあうということは知ることであり、知ることは綴れるということであって、映画の後半より、主人公ベラは作家家業としての執筆をはじめます。彼女が叩きだすキーの配列は映画そのものとなって、『娼婦と鯨』の原作となってゆきます。

娼婦としてなるべくしてなったロラがエミリオにむかって「価値と値段は違う!」と吐く短い台詞には、人が人を愛することによって傷ついてゆく不透明で捕らえどころのない絶望や自滅に対するアンチテーゼのような苛立ちがそこにはあって、そのことは〈水平線のむこうに広がった見えない水平線〉から死を覚悟しながらふたたび人間界へと回遊してくる歳老いた鯨の魂と重なり、この映画全体の核になっているようでなりません。そのことへの表徴が盲目のバンドネオン奏者スアレスの野獣性であるのかも知れないし、フレームいっぱいに出現する約100歳を生きつづけてきた一匹の鯨であったかも知れません。

あるいはまた、股間に真空管のような円筒形の電球(ランパリータ)を挿入したまま、二本足でタンゴを踊る希有な生き物(娼婦=ロラ)が持ちあわせた渇きからくる、それは永遠にひび割れたあやまちや戦慄への懺悔であったかも知れないが、とりもなおさず、そのことは左乳房を喪失した主人公の戦慄であり、焦燥であり、懺悔であり、愛であったろうに・・・たえず揺れうごく不安定な魂こそ、どこをどう旅しようが絶対に免れることができないでいる、それは人間の宿命であり、本性なのである。

であるこそ、人はだれもが優しくなれるのだ! と、映画『娼婦と鯨』はそのことをしっかり物語っていた。




| 映画 | 19:26 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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