2010.12.13 Monday
もっと“日本人”でありたい
先日、あるところである人に能管を聴かせていただきました。若山流若山社中の方にです。
能管はこれまで幾度となく聴いてきましたが、それは能楽堂でのことであり、目の前で、それも能管だけを聴いたのははじめてでした。
能管のことはそれとなく知っていましたが、聴いているうちになんとまあ変な音だろう。と思いました。息苦しくって、割れたような、くぐもった、ときに甲高くて、叫び声のような、オソロシイ、不可思議な音がしました。
日本人はなぜこんな音を愛してきたのだろうか。なぜこんな音が作られたのだろうか。西洋楽器はそれなりのセオリーを踏めば吹けるだろうが、その人がその日に手にし唇している能管は、最近になって手に入れた年代物で、笛が鳴ってくれたのは何ヶ月も経ってからだと聞く。もちろん、上手い人だから下手ではなく、能管自体が“鳴りたがらなかった”のだった。
能管にはあえて障害物のような「のど」があって狭隘(きょうあい)されている。そのために、そのような音がでるのです。なぜそんなところに狭苦しい詰物を日本人はしたのだろうか? ともあれ、その音を愛し、その音を護ってきた日本人の嗜好性に驚いてしまった。
能楽の楽器で、小鼓も大鼓も砂時計のように胴がくびれているが、このこともやはり変なことなのです。寸胴にわざわざ狭隘部を作っているのだ。だからヌケがラテン系のパーカッションとはまるで違う。小鼓はぺろぺろとツバをつけるから湿っぽいし、大鼓は馬の皮を炭火で焙ってカンカンだし、おまけに手の平があたる箇所には金輪が嵌まっている。つまり、叩けば手が痛いのだ。う〜ん、やっぱ屈折している妙な日本人。だが、しかし、その人の能管を聴いている間中わたしが考えていたことは、そうした神秘性のある“日本人”をもっともっと誇りに思いたかったし、その日、その誇りについて覚醒をした。
能管は中国の龍笛が見本になっていると聞くが、やはりヌケのよさに我慢できなかった日本人は、ノドへ「のど」という詰物をしてしまった。変だ、変だ、変だな〜日本人って・・・やっぱこのことはすごく良い意味において、屈折しているとしか考えられなかった。
ストレートでノー天気なものには満足できず、昔の日本人は妙な音を発明発見してしまったが、最初は龍笛を吹いて楽しんでいたであろう我々の祖先は、その音には飽きて捨て置いてしまった。だが、縁側で齧っていた青豆やネズミの糞が転がり込んでしまっていて、たまに吹いてみたならば実に良い音色がした。「これだ!」と歓喜してあちこちひっくり返してみたならば、干涸びた青豆やコロコロしたクソが落ちてきた。なんてそんなアホなことまでをも想像してしまった。
秀吉の茶室と比べられる利休の茶室も能管の「のど」のような美学だし、徒然草の吉田兼好もそうだし、「見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦のとまやの 秋の夕ぐれ」と何もない世界を愛でた藤原定家もそうだったし・・・腸がにょろにょろと飛び出してしまう切腹も妙な死に方だし、石庭もそうだし、反りの美学も余白の美学もそうだし・・・「今、ぼくは、もっと・・・」。
犬は2万Hzくらいまでの音を聴くことができるとか、しかし、能管はその5倍もの音がしているそうです。もちろん、人間の耳にも犬の耳にも聴こえない不可聴音域の風がそこには吹いているというわけです。
能管の、その聴こえない亡霊の声のような音がわたしの三半規管の奥処にていまも鳴っております。
「今、ぼくは、もっと・・・、もっともっとこの民族を誇りに思いたいし、そうした日本人でありたいし、上っ面の化粧をした皮ではない世界を見ていたいし・・・」、嗚呼! Uさん、本当にありがとうございました。
能管はこれまで幾度となく聴いてきましたが、それは能楽堂でのことであり、目の前で、それも能管だけを聴いたのははじめてでした。
能管のことはそれとなく知っていましたが、聴いているうちになんとまあ変な音だろう。と思いました。息苦しくって、割れたような、くぐもった、ときに甲高くて、叫び声のような、オソロシイ、不可思議な音がしました。
日本人はなぜこんな音を愛してきたのだろうか。なぜこんな音が作られたのだろうか。西洋楽器はそれなりのセオリーを踏めば吹けるだろうが、その人がその日に手にし唇している能管は、最近になって手に入れた年代物で、笛が鳴ってくれたのは何ヶ月も経ってからだと聞く。もちろん、上手い人だから下手ではなく、能管自体が“鳴りたがらなかった”のだった。
能管にはあえて障害物のような「のど」があって狭隘(きょうあい)されている。そのために、そのような音がでるのです。なぜそんなところに狭苦しい詰物を日本人はしたのだろうか? ともあれ、その音を愛し、その音を護ってきた日本人の嗜好性に驚いてしまった。
能楽の楽器で、小鼓も大鼓も砂時計のように胴がくびれているが、このこともやはり変なことなのです。寸胴にわざわざ狭隘部を作っているのだ。だからヌケがラテン系のパーカッションとはまるで違う。小鼓はぺろぺろとツバをつけるから湿っぽいし、大鼓は馬の皮を炭火で焙ってカンカンだし、おまけに手の平があたる箇所には金輪が嵌まっている。つまり、叩けば手が痛いのだ。う〜ん、やっぱ屈折している妙な日本人。だが、しかし、その人の能管を聴いている間中わたしが考えていたことは、そうした神秘性のある“日本人”をもっともっと誇りに思いたかったし、その日、その誇りについて覚醒をした。
能管は中国の龍笛が見本になっていると聞くが、やはりヌケのよさに我慢できなかった日本人は、ノドへ「のど」という詰物をしてしまった。変だ、変だ、変だな〜日本人って・・・やっぱこのことはすごく良い意味において、屈折しているとしか考えられなかった。
ストレートでノー天気なものには満足できず、昔の日本人は妙な音を発明発見してしまったが、最初は龍笛を吹いて楽しんでいたであろう我々の祖先は、その音には飽きて捨て置いてしまった。だが、縁側で齧っていた青豆やネズミの糞が転がり込んでしまっていて、たまに吹いてみたならば実に良い音色がした。「これだ!」と歓喜してあちこちひっくり返してみたならば、干涸びた青豆やコロコロしたクソが落ちてきた。なんてそんなアホなことまでをも想像してしまった。
秀吉の茶室と比べられる利休の茶室も能管の「のど」のような美学だし、徒然草の吉田兼好もそうだし、「見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦のとまやの 秋の夕ぐれ」と何もない世界を愛でた藤原定家もそうだったし・・・腸がにょろにょろと飛び出してしまう切腹も妙な死に方だし、石庭もそうだし、反りの美学も余白の美学もそうだし・・・「今、ぼくは、もっと・・・」。
犬は2万Hzくらいまでの音を聴くことができるとか、しかし、能管はその5倍もの音がしているそうです。もちろん、人間の耳にも犬の耳にも聴こえない不可聴音域の風がそこには吹いているというわけです。
能管の、その聴こえない亡霊の声のような音がわたしの三半規管の奥処にていまも鳴っております。
「今、ぼくは、もっと・・・、もっともっとこの民族を誇りに思いたいし、そうした日本人でありたいし、上っ面の化粧をした皮ではない世界を見ていたいし・・・」、嗚呼! Uさん、本当にありがとうございました。