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「越境」

コーマック・マッカーシー「越境」黒原敏行/訳 早川書房(ハヤカワepi文庫)



マッカーシー(Cormac McCarthy)の『越境』をなんとか完読しました。

311以降の状況下で、コーマック・マッカーシーの作品を初めて読ませて戴きました。自然、悪いヤツらや富める者らはグルになってつるみ、貧しき人々は孤立するという、いつの世も変わることのない連中がのさばる荒野をいかにして『越境』できるか。と、まずもってそのことを強く考えさせられました。

まだ読んでいない人、これからの人、すでに読まれた方もいらしゃるでしょうからくどくどした説明は避けるが、今日のような雨の日、身勝手な問わず語りをお許しいただければ幸いです。

第一章は美しくも哀しい少年と牝狼の物語で、それそのものが一つの物語となっていたが、二章、三章、四章はいささか趣の異なった形而上学的なロード・ノヴェルになっていた。が、全章を通して無駄が無く、感情描写は避けられていて、不思議なほど静謐で、純粋で、ただただニヒルで、過酷な物語の連続であった。しかし、内容がそうであればあるほどに、温かな人のぬくもりが滲みでてはくるものの、すぐにもまた、すべては流された血が地へ無意味なまま吸い取られてゆくような現実・・・結局はなにか大きな力によって執拗に駆り立てられてゆく人間や生きものたちの運命や宿命が書かれているようでならなかった。

16、7歳の少年ビリーはニュー・メキシコからメキシコへ、国境をなんどとなく越境しながら彷徨うが、その度ごとに、私は当初、荒れた地形を地図の上でいちいち追いかけて見ようとしたが、そんな事はどうでもよくなってしまった。読み進んでゆけばゆくほどに、自分自身の空洞が広がってゆくばかりで、人が名付けた地名などなんの役にもたたなかったからである。そんなことよりはむしろ、ビリーや弟ボイドの旅は生きることそのものの本性となって、私自身の行く手をはばみ、迷宮入りさせ、どこかへと手ぐすね引いてゆかれるたびごとに、不条理な謎や秘密に魅惑され、まだ読んでもいない一行先の文章を一行、また一行と、コツコツした旅を強いられるハメとなった。

強いられるという表現は適切ではないだろうが、この読み手をかきたてる不可解さの仕組みにのまれてゆく感受性や行為そのものが人生そのものを代弁しているようでならなかった。頭上の星屑や野営の焚き火を見ながら「本当の自分自身はとうの昔に死に、そのあとは一切の経歴も持たず将来の生活といったものもまったく考えられない誰か別の人間として生きてきたかのように思われた」と、ぽつんと話すビリーのリアリズムは妙に温かく、そんなことを書くマッカーシーのことを考えながら、マッカーシーの本を読み、マッカーシーの一行一行を待ち望んで旅をしている“私”は取り返しのつかない星屑や焚き火の中の小さな火を見つけてしまっていて、いつしかビリーとともに同行一人となってしまう。そしてラスト! 追っ払ってしまった醜怪な犬をなんど呼んでも応えはなく、冷たい風が吹いているアスファルトの上に座り込んだ人影はけっしてもうビリーではなく、私でもなく、もちろんあのフェリーニ監督の映画『道』で一人打ちのめされて嗚咽にむせいでいるザンパノでもなかった。それはどこにでも分け隔てるなくいるウン・オンブレ(ただの男)のちっぽけな命でしかなかった。

乱暴ではあるが、マッカーシーの『越境』から小説的ストーリーを読み取ろうとすれば、途端に投げ出してみたいほど退屈な作品になってしまうと思うのは私だけであろうか・・・作品『越境』を丁寧に読んだものだけが知りえる物語だと思えた。

さて、次はなにを読もうか?

おなじ人間たちの欲によって何もかもが失なわれてしまった「事後の世界」を、父と子が“人類最後の火”を運びながら歩き続ける『ザ・ロード』を読んでみたくなったが、たぶん永遠に忘れられないであろう『越境』に登場した犬や馬や狼などの表現描写が絶品であったことをここへ付け加えて終とにします。書きたいことはまだまだ沢山ありますが、長い駄文を読んで下さった方々や、コーマック・マッカーシーを教えて下さったFBトモの三輪さんに感謝申し上げます。ありがとうございました。(^_^)

http://facebook.gwbg.ws/igbh

http://www.youtube.com/watch?v=4FMhJ2A2IDQ&feature=fvsr






| 文学 | 20:21 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
変毒為薬


戦前の 
神経学雑誌
「精神科薬広告圖像集」をながめていたら
「カルモチンを紙屑籠に投げ入れて
  又取り出して
   ジツと見つめる」
そんなことが書いてあった
夢野久作「猟奇歌」の一節だろう

友川かずき作詞作曲
ちあきなおみが歌っている
「海のそばで殺された夢」と
この「猟奇歌」はどこかでつながっていて
それでちょっと知っていたが
そのカルモチン・・・
つまり睡眠薬のことであるが
不眠時頓服薬ブロバリンとして
いまだ名前をかえて売られているとかや

くわばら くわばら

この薬
太宰治が三度飲んで死にそこね
芥川竜之介
金子みすゞ
みなこれにて服毒自殺した

パボン
テトロドトキシン
オプタルソン
キナポン
いなおそろしや げにおそろしや

ゲロゲロのペッ! ペッじゃわいな!

さてもいま
金子みすゞに関するお仕事をしているが
本日ただいま丑三つ時
朝にでもなったなら
光たちこめるその中で
お線香一本立ててあげようか
平ら成る 睦月 仏滅 曼荼羅華
かの人の詩は
人の心をなごませるから


*今日の一曲は、友川かずき作詞作曲「海のそばで殺された夢」をまた聞きましょう。





| 文学 | 02:02 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ケルト語ではナジェーナ


■としょかんでかりている本。

 子どもの目に映った戦争
 アンネ・フランク
 スノーグース
    /Paul Gallico 





■あの矢川澄子さん訳の「スノーグース」を所持していますが
片岡しのぶさん訳のほうが「The Snow Goose」は断然にいい
だから、これで三度目の「ナジェーナフィエン/野鴨」です。




| 文学 | 09:41 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
光のせせらぎ


画家で詩人であられる大岡亜紀さんが新作の詩集『光のせせらぎ』を贈って下さった。

これまでの詩集『新バベルの塔』や『ある時 はじめて』にくらべると、わたしには柔らかな直球がこちらへ投げかけられているようでならない。

「旋律」「迷い子」「苦い実」「若葉の声」「現の感覚」「抱擁」「あそぼう」などが好きだ。ことに、「あそぼう」の最後の五行がとても気に入っている。それは、わたしが愛してならない牧野和春著『三重塔紀行』(牧野出版)に書かれてある「前山寺 ならずの塔」に登場する一本の野菊を思わせる。


  ・・・・・・・・・・・・・
  ・・・・・・・!

  空き地の枯れ草のなか 一輪の野花が
  涼風に心を寄せて揺れている。
  ここにも あそぶことを怠らず生きている、
  ひとつしかないいのちの
  ちいさな具現者がいる

                  詩集『光のせせらぎ』 大岡亜紀  花神社


ご主人のA氏は三菱一号館美術館初代館長となられ忙しい毎日を過されているが、いつかまた明るい彼の笑顔につつまれながら、三人で赤ワインを飲めたらいいなと思っている。

亜紀さん、いつもあ・り・が・と・う。




| 文学 | 15:49 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
NHK-FMシアター
ラジオから
一句
流るる
FMシアター




















鈴木しづ子
魂の俳句
ラジオにて
いまさら純潔などと
吐ききって





















黒人軍曹
ケリー・クラッケ
黒き肌
押しかぶさって
雨の居の
中の下敷き



| 文学 | 00:04 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
釣らるゝ白鷺
NHK第一の
朝のラジオは
どうも好かない
それが習慣となり
ラジオをあまり聴かなくなった

ときどき
流すこともあるが
そんなときはFM放送だ

で 今朝流していると
青来有一という人の
『鳥』という
ラジオドラマが流れた
FMシアターの
これは再放送であり
番組は毎週土曜日
22時からの50分間で
朝と違い
聴くタイミングを
逸しやすい

この『鳥』をまったく知らなかった
長崎被爆体験者のドラマで
養母に育てられた
ひとりの男の話である

男児の赤ん坊を拾った女は
そのことにより
逆に命を拾う
子どもを必至に育てるうち
不思議と乳が張り
男児はその女のささえとなり
男児はその女をささえとする
わずかな極みの中で
双方
生きる張りもでてくる
そんな状況下
血のつながらない母子は
一羽の白鷺と出合う・・・

わたしの説明は多少順不同
おまけにこれは伏線だ

その後 
男は少年時代を経て
今では定年の身となり
毎日を平凡に暮らしている
だが 「お前は誰だ!」と
自身は自身に揺すぶられ
妻とともに古い家で
不安な夜を過すこともある
そんな時
「お前は誰だ!」と
時空を超えて
ひびく声
男はその声にたぐられて
細い鞭のような
赤いデグスの糸で
逆さに釣らるゝ
一羽の白鷺と出合う

う〜ん
久しぶりにいいお話しだった



| 文学 | 12:08 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
とわずがたり
 10月7日の記事で 『鬼の橋』伊藤遊・著/太田大八・画(福音館書店)の本のことを書いたら意外な反響があったので、横道へそれてしまうが、つづきを少し書いてみたいと思う。コメントを寄せてくれた方のHOMEへ行って茶飲み話しをしたときのつづきのようなものだ。

本に関してのことだが、どのジャンルの本であっても真剣に、そして真摯に出版なさっている出版社がいくらでもあることは知っている。絵本のジャンルだって勿論そうだ。が、児童書ということもあってか、ややもすると大人の目線で捉えた“子どものための”と称する落し穴にはまり込んで気がつかない版元も多い。気がついている場合はその方法が儲かるからだ。もちろん、だれだって生活がかかっているから儲けなくてはならないのは当然だろう。しかし、その論法を“子どものための”とはばかって妙に口当たりの柔らかいものや、子どもの目を飽きさせないことばかりに重きを置いたページ作りになっている傾向が多く目につく。 「子どもがすごく喜ぶから」と云ったところで、子どもには選択件もお金も交通手段や本の情報量もそれほどないわけで、与えられた範疇で「あれは投げ出し、 これは熱中」というだけのことなのだ。仮に図書館でずらりと並べておいて、一つの本に子どもが興味をしめしたからと云ったところで、目には見えない条件が さまざまにあって、それが子どもにとって即いいものとは限らない。 無論、なにを与えようが、良いものと悪いものの区別なんか最初から歴然としているわけではないのだから、子どもの成長とともに分けへだてなく、そして思いやりをもってタイミングよく与えてあげればそれでいいのだ。甘いお菓子だけじゃなく、にがいお菓子もほどよく食べていただく。そのためには、流行だったり、大人のエゴイズムやお手軽な主観でひょこひょこと描いた(書いた)シャレた絵本もいいにはいいが、存外に、洋の東西をとわず、古典や伝説、名作などをいま一度しっかりした骨組みと解釈でもって新たな風を吹かせてみるのも大切なのではないだろうか。そして、大人はそれをじっくりと子どもに読んで聞かせてあげ る・・・・ところが、せちがなくて憂鬱でリセッションなこの時代、大人がその時間をとれないからだろう? 文章の短いものや、子どもが一人でも読めるようなものが多すぎると思う。カワイくって迫力があり、すぐにでも楽しめる絵本。そんな特効薬作りを作家に依存し、丸投げしてしまう楽な絵本作りがまだ当分はつづ くだろうに・・・・。

余談だが、幼かったころ祖母に『安寿姫と厨子王丸(安寿と厨子王丸)』をたびたび読んでもらったことがある。好きだったページは、姉の安寿姫と弟の厨子王丸が死を決した別れとなる前夜、粗末な部屋で膝を交えながら護本尊を中心に据えながら、二人の今後を共に祈りあう場面であった。いまでも思うのだが、宗教がどうだこうだというのではなく、生きることへの切実さのようなものが幼心にも理解できたからだと思う。もう一場面、苦労の末に盲目の母と厨子王丸が再会する場面だ。襤褸をまとって笹の葉で雀を追いながら「あんじゅ恋しやホーラホイ、ずしおう恋しやホーラホイ」と歌いつづけている母・・・・母は無意識であろうが、あきらめることなく情報を流しつづけている。そして、母を捜し求めつづける厨子王丸は、自然その歌詞に吸い寄せられてゆく。生き抜くことへの感動がそこにはあった。

少々大袈裟かも知れないが、わたしのような半端者でも今だ人の道をなんとか踏み外さないで此処までやってこれたのは、実は、この本があったからだ。理不尽にも引き離される親兄妹はなにも中世にいた山椒大夫のせいばかりではない。親の離婚(国によっては戦争や飢饉もある)などでどこにでもいる。つまり、『山椒大夫物語』や『安寿姫と厨子王丸』はぜんぜん古くないのだ。『鬼の橋』もまたしかり、生と死と愛の問題は普遍的であり、共同原理だから。
文責/佐藤三千彦



| 文学 | 02:11 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
カルティジアンの罪
デカルト主義者(カルティジアン)は言う。たとえば、イヌは時計と同じだ。打ちすえると声を発するのは身体の中のバネが軋(きし)む音にすぎない。イヌ自身は何も感じてはいないのだ。イヌには魂も意識もない。あるのは機械論的なメカニズムだけだーーーーー。

カルティジアンの中には、……(中略)

十八世紀前半を生きたフランスの医師ラ・メトリー(唯物論の哲学者として知られている)は、人間を特別扱いする必然は何もなく、人間もまた機械論的に理解すべきものなのだとした。


福岡伸一『動的平衡/Dynamic Equilibrium』木楽舎より




| 文学 | 00:26 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
パワーゲーム
ここにこそ、わたしの霊的葛藤の中心がある。すなわち、自己否定、自己軽視、自己嫌悪との軋轢(あつれき)である。……(中略)わたしには価値がなく、役立たずで、取るに足らない存在だと思い込ませようとする……(中略)

消費者の自己イメージの低さを巧みに操作して、物質的な手段で霊的満足が得られるかのような消費優先主義の経済が大手を振っている。自分は「ちっぽけな存在」だと思っているかぎり、自己イメージがすっかり変わると約束するかのような物を買ったり、そのような人にあったり、そのような場所に出かけたりすることに、たやすく誘惑されてしまう。しかし、こうしたことに操られ、誘惑されるたびに、わたしは自らをさらに卑しめ、望まれずに生まれた子であるかのように自分を見てしまうのだ。

「自分を本当に愛してくれる人はいるのだろうか? 自分を本当に気にかけてくれる人はいるのだろうか?」

消費社会は、子どもっぽい欲求を満足させることにふけるよう奨励してきたのではないか? 未熟な依存から自らを解放し、責任ある大人としての重荷を引き受けるようにと、……(中略)チャレンジした人はいるのだろうか?……(中略)絶えずわたしたち自身が回避してきたのではないだろうか?


ヘンリ・ナウエン『放蕩息子の帰郷』あめんどう 片岡伸光/訳より

*この本は、兄、弟が、彼らの“父”から財産を均等に分与されたが、弟は放蕩の末に財産を無駄使いして帰郷する。。。。しかし、それを心から温かく迎える“父”。。。。その間家を守り、なんら落ち度がなかったはずの兄がかかえなければならない黒い葛藤。。。。画家レンブラントが晩年になってから描いた『放蕩息子の帰郷』の絵と出会ったヘンリ・ナウエンが、ボロボロになって帰郷した放蕩息子の両肩へのせた“父”の大きくて温かいその手のありかから、わたしたちをソリチュードな旅路へと誘い、道案内をしてくれる希有な本です。





| 文学 | 00:01 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
練りものに取り囲まれた時代
乳牛はのべつまくなしに切目なく妊娠させられ続けます。……(中略)子牛が生まれると……(中略)。子牛が飲むべきミルクは商品として搾乳機によって搾乳されますし、子牛が一瞬でもお母さんのおっぱいを飲むという幸福な体験を味わうと……(中略)何もわからないうちに違うところへ連れていかれるのです。

そして子牛は次の乳牛に仕立て上げる……(中略)ミルクを飲ませるわけにはいかない。……(中略)もっと安くて、しかも高タンパク質の栄養分を代用乳として与えなければなりません。

そこでイギリス人たちは……(中略)家畜の死体を思いついたのです。

牛や豚や羊の死体を集める。大釜で煮て……(中略)脂を漉し取り、残った肉かすを乾燥させて、パウダー状にする。これを肉骨粉と呼んでいました。

子牛はもちろん、そんなものは飲みたくないわけですが、……(中略)

スクレイピー病で死んだ羊の死体が肉骨粉の材料の中に混じっていて、それを食べた牛から狂牛病が現れた……(中略)草食動物を肉食動物に変え……(中略)牛に牛を食べさせる、羊に羊をたべさせる……(中略)強制的な共食いをさせた。

燃料費を節約するため、その工程を三〇分程度で(通常は死体を二時間くらい煮込む)やめる……(中略)熱風を当ててカラカラになるまで肉骨粉を乾燥させていたのも、生乾き状態でやめてしまった。

肉骨粉中に病原体が生き残るようになり……(中略)狂牛病が発生したというわけです。

牛の狂牛病よりもヒトの変異型ヤコブ病(クロイツフェルト・ヤコブ病)のほうが潜伏期間は長くなります。おそらく、狂牛病が発生した一九八五年前後に、イギリスの場末の安いパブで、汚染されたくず肉などで作られたハンバーガーやミートパイを食べた青少年たちの中に、10年くらいの潜伏期を経て、この病気が現れてきたのだと考えられます。

イギリスは、自分の国の中で狂牛病の原因とわかった肉骨粉を、そのまま外国(フランス、アジア、アメリカなど)へ売りさばいたのです。

日本政府は、イギリス産の肉骨粉が、いつ、どれくらい輸入されたのか、その実態をきちんと把握していません。しかし、イギリスの輸出統計では、一九九六年の禁輸までに三〇〇トンを越す肉骨粉の輸出が、日本向けにあったとされています。

日本では二〇〇一年に狂牛病の第一号が……(中略)

アメリカにはトレーサビリティ(流通経路が記録され、追跡可能な状態にあること)に当たるものが何もない……(中略)日本と同じくらいのところまでハードルを高めてくれれば、これは貿易摩擦でも何でもありません。

肉骨粉を売りさばいてしまった人……(中略)が経済的な利益を得て、そのリスクだけが下流のほうで消費者に流れて……(中略)狂牛病は、終ってもいないし、解決もしていない。

ファストフードの安いハンバーガーには、一個あたり五〇〇頭の牛の肉が入っていることもあります。

牛肉の格安の部分をいろいろなところから集めて、巨大なシステムの中で混ぜ合わせ、均一化し、量産する、見えないプロセスがあるのです。


福岡伸一『生命と食』岩波ブックレット No.736 岩波書店より
*『生命と食』は格安の本(¥480)ですから、一度手に取って読んでみては………。特に、若い人へお勧めします。

福岡伸一;1959年東京都生れ, 京都大学大学院農学研究科博士後期課程修了. ロックフェラー大学およびハーバード大学医学部博士研究員. 京都大学助教授を経て, 青山学院大学理工学部化学・生物科学科教授. 専攻は分子生物学.





| 文学 | 00:07 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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