2020.06.07 Sunday
ベアト・アンジェリコの翼あるものと受胎告知
「翼、越え」
イタリアの作家アントニオ・タブッキの「ベアト(フラ)・アンジェリコの翼あるもの」を、また読んでいる。理由はさだかでないが、「受胎告知」を描いた画僧アンジェリコである前に、彼がひとりの農夫であったことに強く惹かれたからだ。ゆえに“天使”が彼の前にあらわれて、彼もまたその“天使”を見ることができた。無垢であることへの納得が私に芽生えたからであり、土にいのちを根ざそうとした魂がよびよせる翼あるものたちの姿を再び夢想してみたかったこともある。昆虫のような、丸いサラダ菜のような、骨と皮だけのような、怪奇というよりは滑稽なまでの多様性や豊かさ、筋道の立たない形態ではあるが妙な優しさ、ふくよかな光に包まれるような寛容に満ちあふれた穏やかさ。
知的生命体の火星人が“タコ型”星人と呼ばれていた時期があったことを思い出しながら、私は私なりに翼あるものたちの形態を探ってみるが、そんなことよりは、羽音のざわめきのなかで「明日はぼくらを描かなくてはいけないよ、わざわざそのためにやって来たのだから」と翼あるものたちに催促されたアンジェリコが、ズッキーニや泥で染まった指でもって修道院にあった寛衣(トウニカ)の中から薔薇色を選んだ触覚を愛する。
倒れないよう椅子によりかからせ
膝を折らせ
うやうやしい物腰で
両手を胸まえに組ませて
翼あるものに言った。
「薔薇色の寛衣できみを覆ってあげよう
きみの身体はあまりにも醜いからね。
-----いま描いているのは
〈受胎告知〉なのです」
すこしづつ描きあげていく画僧としての仕事中、玉葱もまた、土くれのなかのバクテリアを食べながら丸々と育っている。そんな玉葱やトマト、ズッキーニを彼は食べ、彼の仕事を手伝った僧も食べながら「受胎告知」は描きあがってゆく。そう考えてみれば、水や、肥やしや、ミミズや、バクテリアも手伝ったことになるのではないだろうか。コンダクターとしての画僧アンジェリコが森羅万象生きとし生けるものたちとともに「受胎告知」を描きあげたとき、空から舞い降りてきた翼あるものたちはマッハの速さで翼越えしてしまっていて、消えていた。
その瞬間の消滅から六百年後のこの地上、自己の皮膜だけを肥大化させていくサイバー空間や、眼に口に、耳に体に心地よい潔癖なものや快適なものばかりを消費させようとする資本主義社会=万物商品化によって人のこころは先細り、蝕まれていく。本来であれば、夢心地するような胎内回帰にも似たものであったろうが、人々は罠にかかり、いわばホルマリン漬けされた胎児の姿態のように目玉だけを大きく見開いた生きものへと変質しつつある。こんな世であっても、たった一枚のヴェールを怪奇なモデルに着せたと言うアントニオ・タブッキの安あがりなイリュージョンへのざわめきを、私は愛する。薔薇色の、薄いヴェールの皮膜を透かすタブッキの透視図法、その水面下を想像しろと言わんばかりの彼の解剖学が好きなのだ。なぜであれば、タブッキがアンジェリコに言わせる「ぼくがきみのことを解るのは、ぼくがきみのことを解るからに尽きるようだ」。このことは森羅万象あらゆるものごとに「耳をすます」ということであり、聞こえた!ということは、世界はそこにこそ存在していて、ただそれだけでも生きてゆくことに意味があるということを教えてくれる。そのような翼あるものに、安あがりな薔薇色のベールを被せて描く土に根ざした画僧の画業。たとえ稚拙であっても、安あがりであっても、得難い錯覚を呼び起こすことのできる画家に私もなってみたいと、翼越えしていったエーテル体にむかって「ノウマク サンマンダ バサラダン カン」と手をあわす。
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