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ベアト・アンジェリコの翼あるものと受胎告知



   「翼、越え」

イタリアの作家アントニオ・タブッキの「ベアト(フラ)・アンジェリコの翼あるもの」を、また読んでいる。理由はさだかでないが、「受胎告知」を描いた画僧アンジェリコである前に、彼がひとりの農夫であったことに強く惹かれたからだ。ゆえに“天使”が彼の前にあらわれて、彼もまたその“天使”を見ることができた。無垢であることへの納得が私に芽生えたからであり、土にいのちを根ざそうとした魂がよびよせる翼あるものたちの姿を再び夢想してみたかったこともある。昆虫のような、丸いサラダ菜のような、骨と皮だけのような、怪奇というよりは滑稽なまでの多様性や豊かさ、筋道の立たない形態ではあるが妙な優しさ、ふくよかな光に包まれるような寛容に満ちあふれた穏やかさ。

知的生命体の火星人が“タコ型”星人と呼ばれていた時期があったことを思い出しながら、私は私なりに翼あるものたちの形態を探ってみるが、そんなことよりは、羽音のざわめきのなかで「明日はぼくらを描かなくてはいけないよ、わざわざそのためにやって来たのだから」と翼あるものたちに催促されたアンジェリコが、ズッキーニや泥で染まった指でもって修道院にあった寛衣(トウニカ)の中から薔薇色を選んだ触覚を愛する。


   倒れないよう椅子によりかからせ
   膝を折らせ
   うやうやしい物腰で
   両手を胸まえに組ませて
   翼あるものに言った。
   「薔薇色の寛衣できみを覆ってあげよう
   きみの身体はあまりにも醜いからね。
   -----いま描いているのは
   〈受胎告知〉なのです」
   


すこしづつ描きあげていく画僧としての仕事中、玉葱もまた、土くれのなかのバクテリアを食べながら丸々と育っている。そんな玉葱やトマト、ズッキーニを彼は食べ、彼の仕事を手伝った僧も食べながら「受胎告知」は描きあがってゆく。そう考えてみれば、水や、肥やしや、ミミズや、バクテリアも手伝ったことになるのではないだろうか。コンダクターとしての画僧アンジェリコが森羅万象生きとし生けるものたちとともに「受胎告知」を描きあげたとき、空から舞い降りてきた翼あるものたちはマッハの速さで翼越えしてしまっていて、消えていた。

その瞬間の消滅から六百年後のこの地上、自己の皮膜だけを肥大化させていくサイバー空間や、眼に口に、耳に体に心地よい潔癖なものや快適なものばかりを消費させようとする資本主義社会=万物商品化によって人のこころは先細り、蝕まれていく。本来であれば、夢心地するような胎内回帰にも似たものであったろうが、人々は罠にかかり、いわばホルマリン漬けされた胎児の姿態のように目玉だけを大きく見開いた生きものへと変質しつつある。こんな世であっても、たった一枚のヴェールを怪奇なモデルに着せたと言うアントニオ・タブッキの安あがりなイリュージョンへのざわめきを、私は愛する。薔薇色の、薄いヴェールの皮膜を透かすタブッキの透視図法、その水面下を想像しろと言わんばかりの彼の解剖学が好きなのだ。なぜであれば、タブッキがアンジェリコに言わせる「ぼくがきみのことを解るのは、ぼくがきみのことを解るからに尽きるようだ」。このことは森羅万象あらゆるものごとに「耳をすます」ということであり、聞こえた!ということは、世界はそこにこそ存在していて、ただそれだけでも生きてゆくことに意味があるということを教えてくれる。そのような翼あるものに、安あがりな薔薇色のベールを被せて描く土に根ざした画僧の画業。たとえ稚拙であっても、安あがりであっても、得難い錯覚を呼び起こすことのできる画家に私もなってみたいと、翼越えしていったエーテル体にむかって「ノウマク サンマンダ バサラダン カン」と手をあわす。



   http://blog.michihico.com/?eid=1018681







| 文学 | 11:59 | comments(0) | - | pookmark |
「ベアト・アンジェリコの翼あるもの」アントニオ・タブッキ
Facebook/Book Cover Challengeより

読書文化の普及に貢献するために好きな本を1日1冊、7日間投稿するチャレンジ ・リレー!七回目です


「ベアト・アンジェリコの翼あるもの」
著者  アントニオ・タブッキ
訳者  古賀弘人
出版社 青土社


ブック・リレーも最後の一冊となりました。繋いでくれた堀川さんやこれまで読んで下さった方々、どうも有難うございます。とても楽しい日々でした。私は新しい着想で作品に挑むたび、本箱の本を並び換える悪癖があります。この度のリレーも、ここ最近になって並べ換えたものや共振しあっている本を選んでみました。シモーヌ・ヴェイユやアッシジのフランチェスコ、聖ヒルデガルト(・フォン・ビンゲン)の医学と自然学、中沢新一の野ウサギの走りなどがいま一カ所に並んでいます。ですからどれにしょうか迷いましたが、共振力の強いものや、親しみのある本から選びました。が、今回のアントニオ・タブッキの「ベアト・アンジェリコの翼あるもの」は一回目の「西行花伝」とともに、共振というよりは、強く共鳴しあっている一冊です。そんなふうに震わせる震源地には、フェリーニ監督の映画「道」が地球ゴマのように一定のバランスを保ちつつ、しがない芸人ザンパノのような私の肩をたえず叩いてくれます。また、聖フランチェスコのような綱渡り芸人《キ印》には憧れますし、世間をギクシャクとしか歩けなかった人魚姫のようなジェルソミーナが強張った私の魂をいつも柔らかくほぐしてくれます。

去年の夏に眼の手術をして以来、近くにある雑木林や植物園を毎日のように散歩しながら、虫や鳥、花やタネや枝や風や、雲や雨などとまた新たに出会い、語り合ってきました。その延長線上で、以前から一度はやってみたいと願っていた仕事に偶然であい、いま縁あって真言宗のお寺で寺男のような仕事をしています。朝はゆったり食事をしたいので、仕事のある日は午前四時前には起きています。一月二〇日から始めましたから、新型コロナウイルスが日本でも騒がれてはじめたころで、なんだか奇妙な縁だったと思います。寺の境内に落ちている花、果物、石、落葉、木の実や小鳥の糞など、どれもがみな美しく、竹帚で掃くほどに心やすらかに語らいあうことのできる相棒たちです。けれども、境外の歩道へ無造作に捨てていった人間の匂いのする欠片とは上手く話せないのが可笑しいです。が、そう思う私のこころを戒めるように、あるいは浄化するように、不動明王の護摩壇から仏具の触れあう美しい金属音が日々聞こえてきます。

おそらくは、「ベアト・アンジェリコの翼あるもの」の主人公・修道院僧&画僧アンジェリコも、私が暗い蟻の巣の穴から響いてくる声を楽しく聞いているように、野菜畑に植わっている梨の木のとげとげしい枝と枝のあいだに引っかかっている“翼あるもの”たちが見えたのでしょう。「なぜきみはぼくが見えるのか?」と翼あるものに尋ねられたアンジェリコが「ぼくがきみのことを解るのは、ぼくがきみのことを解るからに尽きるようだ」と、著者アントニオ・タブッキは解きあかします。羽を打ちあわせる響きの言葉や虹のようなフォルムを見聞きできる所以こそが、あの「受胎告知」ではないだろうか・・・。いま私もそんなふうにして絵を描こうとしている。描きたいと思うが、今後これからのライフワーク、描けるだろうか。



*我に五月を! 紫水晶のような鳥の糞





| 文学 | 16:41 | comments(0) | - | pookmark |
「永仁五月三日の刀」赤江 瀑
Facebook/Book Cover Challengeより

読書文化の普及に貢献するために好きな本を1日1冊、7日間投稿するチャレンジ ・リレー!六回目です


『野ざらし百鬼行』より、短編「永仁五月三日の刀」
著者  赤江 瀑
出版社 文藝春秋
装画  坂東壮一
A・D  坂田政則


赤江 瀑氏の本は、あれもこれもいいという具合いでそれなりに読んだつもりだが、なかで好きなのは何かと問われれば、長編『海峡』は図抜けて良かった。それでも『野ざらし百鬼行』に収録されている「永仁五年三月の刀」だと真っ先に応えたい。永仁とは鎌倉時代後期の元号、五年三月とは刀の茎(なかご)に刻まれてある日付銘で、反対側には来国俊(らいくにとし)と銘打ってある。一世の名工・来国俊の作であるが、別名「螢丸」と呼ばれている。「螢丸」には伝説があって、楠木・新田勢に破れた足利尊氏が筑前(現在の福岡県宗像市)に逃れたとき、打って出た肥後の菊池勢に参戦した阿蘇大宮司惟国の子、惟澄(これずみ)が戦場に帯びた名刀とのこと、けれども負戦となって、ほうほうの体で菊池館へもどった惟澄はボロボロになった刀に神徳を誓い倒れ伏したとき、こぼれ欠けた刃の破片が一つ一つ元の場所へ還り飛んできて修復されたとのこと。その様子が、無数の蛍が飛んできたかのように見えたところから「蛍丸」と名付けられたと言う。しかし刀は終戦直後、進駐軍の何者かに持ち去られて未だ行方不明だとか。物語はそんな幻の刀が織りなす夢のような現で、史実というか、伝説の刀匣へ現実の刹那がすっぽりと入れ子になっている奇妙な野ざらし鬼行だと思った。

ここまでが伝説で、本筋である現実話は、安ホテルへ泊まった男の部屋にフロントから電話があって、休憩に利用した先の客が忘れていった品物(永仁五年三月の刀)を取りに伺いたいが在るだろうか・・・と言ってはじまっていく。取りにきたのは奇妙な女で、上品な物腰ではあるが、どこかしら濡れたように淫蕩な女だった。男は風呂敷に包んであった刀をこの女に渡したあと、あわあわと群れだつような光のなかで、一瞬にして性的な関係に引きずりこまれてゆく。たったそれだけの話だが、まるで螢が疲れはてている男をなめつくすようで面白かった。

赤江氏は下関長府の生まれで、氏の世界には平家滅亡の修羅が匂う。逆さクラゲ(温泉マーク)のネオン管がジイジイと唸っている安ホテルの部屋に「永仁五年三月の刀」を受けとりにやってきた女とは・・・、どこかしら平家の女人のようであって、刀は海の深みでじっと眠ったままでいる草薙剣のようでならなかった。永仁の刀を口実にして、現世の男と情を結んだ女はなにをもくろんでいたのだろうか。また、なにの恨みを浄火したかったのであろうか。






| 文学 | 17:04 | comments(0) | - | pookmark |
「スノーグース」ポール・ギャリコ
Facebook/Book Cover Challengeより

読書文化の普及に貢献するために好きな本を1日1冊、7日間投稿するチャレンジ ・リレー!五回目です


短編小説「スノーグース」ポール・ギャリコ
訳 片岡しのぶ
あすなろ書房
装幀 桂川 潤


イギリス東南部の水辺の地に、一人暮らす風変わりな画家ラヤダー。彼が愛するのは、絵と自然、そして水辺にやってくる渡り鳥だけだった。しかし、ある日・・・とはじまるこの本は、ダンケルク撤退作戦(1940)に参加した民間船の船乗りラヤダーという男の生きざまと、ある日、その男のところへ傷ついた白い水鳥スノーグースを抱いてやってきた少女フリスとの物語です。男は背中に醜いコブがあり、スノーグースは猟師の鉄砲で撃たれていて、少女は青い血から赤い血を流す女性へ変貌しつつある際どさのようなものを、みなそれぞれに持っています。そんな投げだされたような二人と一羽には世界のはじまりの疲労感、スティグマ(聖痕)のような息苦しさやざわめきが深く秘められているようでならなかった。けれども、脆くて傷つきやすい肉体のなかで凛と佇まずにはいられない愛惜な温もり・・・。絵も文章も美しく、本を開いているとジンとくるものがあって、泣きはしないけど泣きたくなるような清らかな懐かしさがそこにはあった。私にはとても大切な“絵本”なのです。


翻訳本は他にもいろいろ出ているので読み比べしましたが、片岡しのぶさんの訳文を是非にもお勧めします。と言い終えてから、絵本「スノーグース」をまた開いて、今ここにアイリッシュウイスキーの「ヘネシー ナジェーナ」があればいいなと思う。だが「ナジェーナ」はすでに終売されている。ナジェーナとは“渡り鳥”の意を持つ古代ケルト語“ナジェーナフィエン”から由来していると聞いているが、強靭な精神の中にやさしさを持った男ラヤダーにはいかにもふさわしいピュアなモルトだと思ったからだった。






| 文学 | 11:30 | comments(0) | - | pookmark |
「オートバイ」A・ピエール・ド・マンディアルグ
Facebook/Book Cover Challengeより
読書文化の普及に貢献するために好きな本を1日1冊、7日間投稿するチャレンジ ・リレー!四回目です


小説「オートバイ」A・ピエール・ド・マンディアルグ
訳 生田耕作
白水社
装幀 北園克衛


ふるさとは三重県の四日市、そこから鈴鹿サーキットまで赤いスポーツバイクをブッ飛ばし、土・日にアルバイトしていた。高校一年生のころで、サーキットに漂う英国製エンジンオイル「Castrol_R30」の甘い強烈な香りを嗅いでいたかったからだ。東京へでてきてからは、横浜のオートバイクラブ「ケンタウロス」の看板持ちになって第三京浜や首都高速羽田線をSR500やドゥカティ・マーク3でよく走った。「ケンタウロス」には大倉流能楽師の大倉正之助氏も出入りしていた。私は幼いころから五七調の教典を祖母から教えられ、同じような調子で謡われる能の文言が気になって能は観ていたが、氏の大鼓に圧倒されてからは、尚、よく観るようになった。
前口上が長くなったが、A・ピエール・ド・マンディアルグの「オートバイ」には並々ならない思い出が詰まっている。最初に読んだ「海の百合」で幻惑され、つぎにはもう「オートバイ」を読んでいた。映画「あの胸にもういちど」もよかったが、小説「オートバイ」は風の文学だと思った。そして、これは夢幻能だとも思った。

若いヒロインの人妻が、ハイデルベルグに住んでいる恋人のもとへ大型バイクに乗って逢いにいくまでの物語だが、それは表層的なものであって、途中アルザスの森でヒロインが休息したときから物語は内的なものへと移行してゆく。例えば、針葉樹の木々の葉むらがかすかにうち震えることに気づきはじめたヒロイン。その気づきは平凡な結婚生活では味わうことのできなかった深いところで眠っている欲望の震えであって、ハイデルベルグの男の指のなかで愛されたことのある自分を回想しながらも、オートバイが内包している荒々しい疾走感に身をまかせつつ、やがては風となって徐々に徐々に錯乱し、恍惚してゆく。これは唯識仏教の影響をうけた能の特徴にも似て、人間を真二つに割って構成する思い切った仕掛けがこの「オートバイ」には隠されてあった。いつか機会あればそのことをもっと書いてみたい。(長くなっちゃった。^_^)



* 大倉正之助さんや能に興味ある方はどうぞ! 能楽サイト「the能ドットコム」に掲載していただいた私のエッセーです。
http://www.the-noh.com/jp/people/essay/002michihico.html







| 文学 | 09:26 | comments(0) | - | pookmark |
「サーカス物語」ミヒャエル・エンデ
Facebook/Book Cover Challengeより
読書文化の普及に貢献するために好きな本を1日1冊、7日間投稿するチャレンジ ・リレー!三回目です


戯曲「サーカス物語」ミヒャエル・エンデ
訳 矢川澄子
岩波書店
画 司 修


池袋にある美術学校で長いあいだ後進の指導をさせて戴いたことがあった。その折に、ミヒャエル・エンデの「モモ」を教材にしたことがある。時間泥棒が支配する現代社会のなかにあって《みずからがつくりだす自由な幻想》というような授業だったと記憶している。
この「サーカス物語」もエンデのもので、今はおちぶれはてた「賢い阿呆君」たちと呼ばれる芸人がたむろするサーカス一座の物語だが、いま、また、読んでみると、とても興味深くておもしろかった。大蜘蛛アングラマインという妖怪が吐きだす糸の網が四方八方に走っていて、ほんのちょっとした動きも嗅ぎつけてしまう・・・「完全な秩序で結いあげた謀略と恐怖が蜘蛛の権力の基本なんだ(文中)」と、現代のネット社会を先取りしているかのようだった。
サーカスだからといって芸を期待してもなにもない。けれども、絶望にも似た“蜘蛛の糸の手中”から道化師も手裏剣投げ師も綱渡り女も火喰い男たちもみな各々の芸によって闘い、愛と自由と遊び心を手に入れてゆく。しかし、それは劇中劇のなかだけのことで、エンディングはオープニングとさほどかわらないおちぶれたままの芸人一座だった。これはどう言う意味だろうか? 油断していると希望や夢はすぐにでも絶望にかわるぞ! とでも言うようなエンディングだった。ふりだしへ戻ってはまたはじまりだす。それでは、再上演には私の好きな曲を流しましょうか。革命詩人と称された谷川雁作詞のアルバム『白いうた 青いうた』のなかに収録された「アルデバラン」という美しい曲です。これはまるで主人公エリのための曲のよう・・・

  ほしぞら にくしや
  まふゆの ひとりたび

  雲まを はしるは
  牡牛の ひとつ眼よ

  わたしを さらうか
  その名は アルデバラン

  つのなど おそれぬ
  王女に なりたや

  ふぶき こおり
  つらら みぞれ

  ぼろきて あるいて
  王子に いつあえる

  このゆめ にくしや
  ほしふる 谷をゆく


末筆となりましたが、敬愛する業界の大先輩である司修さんの絵に惹かれてこの本を買ったことを記させていただきます。





| 文学 | 16:37 | comments(0) | - | pookmark |
「蠅」J・サルトル
Facebook/Book Cover Challengeより
読書文化の普及に貢献するために好きな本を1日1冊、7日間投稿するチャレンジ ・リレー!二回目です


現代世界演劇 5「実存的演劇」
カミユ「誤解」、サルトル「蠅」などのアンソロジー集
訳 石沢秀二
白水社
装幀 朝倉 摂(=桑沢デザイン研究所時代の恩師であり、演劇部の顧問をして戴いた方)


作家・高橋源一郎さんのラジオ新番組「飛ぶ教室」の初回はカミユの「ペスト」でした。その本がコロナウイルスの影響下でずいぶん売れているとのことですが、渦中にあって、私が思い出したのはサルトルの「蠅」でした。「蠅」はギリシャ悲劇「エレクトラ」の父親アガメムノン大王がトロイア戦争から帰国するやいなや、王妃とその情夫によって祖国アルゴスで惨殺されるアイスキュロス三部作をサルトルが再構成し、戯曲化したものです。殺された人間の情念が「復讐の 女神エリーニュス=蠅」となって黒々と腐臭し、その重みが可視化されてゆく・・・。
状況はともあれ、知らんぷりをしてきた市民など、罪を背負ったアルゴスの街に渦巻く蠅の大群は、たえず《なにか》を見過ごしてきた我々を皮肉っているようでならなかった。



J・サルトル「蠅」の舞台風景。蠅人のコスチュームデザインやメークが秀逸。現代世界演劇 5「実存的演劇」より


            *


劇作集「恭しき娼婦・蠅・出口なし」ジャン=ポール・サルトル
訳 加藤道夫(「蠅」のみ)
人文書院

* 私は白水社の訳者・石沢秀二氏より、こちらの加藤道夫氏の方が断然好き。






| 文学 | 22:05 | comments(0) | - | pookmark |
「西行花伝」辻 邦生
Facebook/Book Cover Challengeより
読書文化の普及に貢献するために好きな本を1日1冊、7日間投稿するチャレンジ ・リレー! グラフィックデザイナーの堀川治人氏から受け取ったバトンの第一回目です


旧知の友からメッセージが届きました。「Book Cover Challenge」へのお誘いです。さっそく電話をしましたが、彼の声を聞いていたら懐かしくなってバトンを繋ぐことにしました。私流「ウサギとカメ」 の、カメのようなリレーとなりますが宜しくお願いします。よかったら見て下さい。

小説「西行花伝」辻 邦生
出版社  新潮社
表紙装画 柄澤 齋
装幀   新潮社装幀室


この本は、コロナウイルスが蔓延しだす前年の秋から初冬へかけ再読した本です。
若いころ角川短歌賞へ毎年応募したことがあって、一度は終盤近くまで残ったこともありますが、短歌を詠むのをいつしかやめてしまった。そんなこともあっ て、西行の歌に接する機会は何度となくありましたが、西行の歌はいつも退屈(結局は高度すぎた)で、正直好きになれませんでした。が、やっぱり気になる歌 人です。この本も歳を経てから再読してみると、いちいちが妙にストンと落ちてきます。文中、西行(辻 邦生)はくり返しくり返し森羅万象の謎や理を解きほぐしていきます。そこがよかった。^_^






| 文学 | 10:14 | comments(0) | - | pookmark |
「越境」

コーマック・マッカーシー「越境」黒原敏行/訳 早川書房(ハヤカワepi文庫)



マッカーシー(Cormac McCarthy)の『越境』をなんとか完読しました。

311以降の状況下で、コーマック・マッカーシーの作品を初めて読ませて戴きました。自然、悪いヤツらや富める者らはグルになってつるみ、貧しき人々は孤立するという、いつの世も変わることのない連中がのさばる荒野をいかにして『越境』できるか。と、まずもってそのことを強く考えさせられました。

まだ読んでいない人、これからの人、すでに読まれた方もいらしゃるでしょうからくどくどした説明は避けるが、今日のような雨の日、身勝手な問わず語りをお許しいただければ幸いです。

第一章は美しくも哀しい少年と牝狼の物語で、それそのものが一つの物語となっていたが、二章、三章、四章はいささか趣の異なった形而上学的なロード・ノヴェルになっていた。が、全章を通して無駄が無く、感情描写は避けられていて、不思議なほど静謐で、純粋で、ただただニヒルで、過酷な物語の連続であった。しかし、内容がそうであればあるほどに、温かな人のぬくもりが滲みでてはくるものの、すぐにもまた、すべては流された血が地へ無意味なまま吸い取られてゆくような現実・・・結局はなにか大きな力によって執拗に駆り立てられてゆく人間や生きものたちの運命や宿命が書かれているようでならなかった。

16、7歳の少年ビリーはニュー・メキシコからメキシコへ、国境をなんどとなく越境しながら彷徨うが、その度ごとに、私は当初、荒れた地形を地図の上でいちいち追いかけて見ようとしたが、そんな事はどうでもよくなってしまった。読み進んでゆけばゆくほどに、自分自身の空洞が広がってゆくばかりで、人が名付けた地名などなんの役にもたたなかったからである。そんなことよりはむしろ、ビリーや弟ボイドの旅は生きることそのものの本性となって、私自身の行く手をはばみ、迷宮入りさせ、どこかへと手ぐすね引いてゆかれるたびごとに、不条理な謎や秘密に魅惑され、まだ読んでもいない一行先の文章を一行、また一行と、コツコツした旅を強いられるハメとなった。

強いられるという表現は適切ではないだろうが、この読み手をかきたてる不可解さの仕組みにのまれてゆく感受性や行為そのものが人生そのものを代弁しているようでならなかった。頭上の星屑や野営の焚き火を見ながら「本当の自分自身はとうの昔に死に、そのあとは一切の経歴も持たず将来の生活といったものもまったく考えられない誰か別の人間として生きてきたかのように思われた」と、ぽつんと話すビリーのリアリズムは妙に温かく、そんなことを書くマッカーシーのことを考えながら、マッカーシーの本を読み、マッカーシーの一行一行を待ち望んで旅をしている“私”は取り返しのつかない星屑や焚き火の中の小さな火を見つけてしまっていて、いつしかビリーとともに同行一人となってしまう。そしてラスト! 追っ払ってしまった醜怪な犬をなんど呼んでも応えはなく、冷たい風が吹いているアスファルトの上に座り込んだ人影はけっしてもうビリーではなく、私でもなく、もちろんあのフェリーニ監督の映画『道』で一人打ちのめされて嗚咽にむせいでいるザンパノでもなかった。それはどこにでも分け隔てるなくいるウン・オンブレ(ただの男)のちっぽけな命でしかなかった。

乱暴ではあるが、マッカーシーの『越境』から小説的ストーリーを読み取ろうとすれば、途端に投げ出してみたいほど退屈な作品になってしまうと思うのは私だけであろうか・・・作品『越境』を丁寧に読んだものだけが知りえる物語だと思えた。

さて、次はなにを読もうか?

おなじ人間たちの欲によって何もかもが失なわれてしまった「事後の世界」を、父と子が“人類最後の火”を運びながら歩き続ける『ザ・ロード』を読んでみたくなったが、たぶん永遠に忘れられないであろう『越境』に登場した犬や馬や狼などの表現描写が絶品であったことをここへ付け加えて終とにします。書きたいことはまだまだ沢山ありますが、長い駄文を読んで下さった方々や、コーマック・マッカーシーを教えて下さったFBトモの三輪さんに感謝申し上げます。ありがとうございました。(^_^)

http://facebook.gwbg.ws/igbh

http://www.youtube.com/watch?v=4FMhJ2A2IDQ&feature=fvsr






| 文学 | 20:21 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
変毒為薬


戦前の 
神経学雑誌
「精神科薬広告圖像集」をながめていたら
「カルモチンを紙屑籠に投げ入れて
  又取り出して
   ジツと見つめる」
そんなことが書いてあった
夢野久作「猟奇歌」の一節だろう

友川かずき作詞作曲
ちあきなおみが歌っている
「海のそばで殺された夢」と
この「猟奇歌」はどこかでつながっていて
それでちょっと知っていたが
そのカルモチン・・・
つまり睡眠薬のことであるが
不眠時頓服薬ブロバリンとして
いまだ名前をかえて売られているとかや

くわばら くわばら

この薬
太宰治が三度飲んで死にそこね
芥川竜之介
金子みすゞ
みなこれにて服毒自殺した

パボン
テトロドトキシン
オプタルソン
キナポン
いなおそろしや げにおそろしや

ゲロゲロのペッ! ペッじゃわいな!

さてもいま
金子みすゞに関するお仕事をしているが
本日ただいま丑三つ時
朝にでもなったなら
光たちこめるその中で
お線香一本立ててあげようか
平ら成る 睦月 仏滅 曼荼羅華
かの人の詩は
人の心をなごませるから


*今日の一曲は、友川かずき作詞作曲「海のそばで殺された夢」をまた聞きましょう。





| 文学 | 02:02 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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