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聖書26/100週間


『サムエル記上』第16章〜第31章を読む

ダビデの活動が生々しく記録されてある『サムエル記上』の後半は
まるで映画をみているようだ
逆をいえば、映画による戦闘シーンやその史実を仮想体験するたびごとに
聖書とは魂のバイブルとしてあるだけではなく
生きぬくための戦術的バイブルともなっているのではないか? 
そう思わせるような『サムエル記上』の後半であった

まごころや裏切り
あざけりや慢心
誠意や忍耐
ありとあらゆる人のこころの糸がもつれもつれながらも
あるべき一本の糸筋となってゆく
その影にはたえず聖なるものへしっかり近づきたいという
まっすぐな人の心がそうさせている
良くも悪くも
力ある人の心から発する言動はおのずと歴史をつくりだす
二代目の王となるダビデの発する言動は
美しすぎるほどに良い力が発している雛形のようでならない

16章7節「人は目に映った華やかなことを見るが、主は心によって見る」
あるいは17章38節において粗野な格好をしたダビデが
青銅でつくられている見事な鎧兜を着るゴリアトと闘うさいに
「こんなものを着たのでは、歩くこともできません」
そういって無理やりに着せられた豪華な鎧兜を脱ぎすて
初代サウル王の名剣をも投げ捨てて
ダビデは自前の杖と道に落ちている五個の石ころだけで闘った
そして見るからに強そうなゴリアトをいとも簡単に倒してしまう
これらの二つのお話には共通する本質的な魅力がある

こうして物語はいろいろ進んでゆくが
ひとつ気なったことがある
それは神に選ばれて二代目の王となるダビデを憎む初代王サウルが
「ダビデを殺しはしない」と決意しているにもかかわらず
神はサウルを誘惑するがごとく
堕天使サタンのような「悪霊」をサウルへたびたび遣わして
そしてサウルを堕落させる
これはなにゆえの試みだろうか
わたしが持つ神への概念を狂わすような「悪霊」とはいったいなになのか?
心のねじ曲がった人間をためすことへの比喩なのだろうか?
いずれにしても気になる箇所だった

これが今週の感想です


今日の祈り;30章21節にある「荷物のそばにとどまっていた者の取り分は、戦いに出ていった者の取り分と同じでなければならない」そうダビデがさとすところがあるが、なんでもかんでもやったもん勝ちの現代において、その精神に学ぶところは大だと思う。荷物を守るものがいるからこそ身軽に戦えるのだ。この価値基準は先にのべた16章7節や、17章38節と共通したものがある。が、しかし、今日の企業における突然の解雇、あるいは党や派閥が互いに抗争しながら大切な事柄はいつでも棚上げにしたまま、ズレた感覚の政治家や実業家だけが勝って気ままにやっている現代。上に立つものは、そして我々は、つまり一人一人の人間たちがどうあらねばならないか、お導きを!




| 聖書100週間/未完 | 11:02 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書25/100週間


『サムエル記上』第1章〜第15章を読む


いまだ混乱していた『士師記』の時代
抵抗勢力である他国との抗争において力を増すために
イスラエルは可視化できる強い指導者
つまり王を立てる必要性に迫られ
最後の士師であり 
祭司であり 
預言者であったサムエルという男は
神に選ばれたサウルという人物へ油を注いで王と定める

しかし生起したばかりで未成熟な王朝というシステムは
あらゆる場面において神を裏切ることとなる
眼前の仕事にあまりにも心を奪われすぎて
よかれと思って先走ったこと………
よかれと思って捧げた神へのいけにえ………
それらあらゆることがらが裏目となって
初代王であるサウルは反逆者とされてしまう
そしてついにはみずからの神に捨てられ
王位を失う………
なんとも憐れな王サウルのことが書かれてあった

王といっても所詮は人間
新たな王が出現し
名君だといわれても間違いを犯すことは多い
そのたびごとに人は可視化できる王を求めてさまよう
滑稽だがこのジレンマはそっくりそのまま現代へと持ち越され
今後これからも続くこと

さてさて 初代サウル王に続く第二代目の王ダビデは
はたして彼はどのような男であろうか………




| 聖書100週間/未完 | 09:49 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書24/100週間


『士師記』第7章〜第21章、『ルツ記』第1章〜第4章を読む


ミケランジェロの彫刻で有名なダビデの像へつながる物語『ルツ記』ですが、物語はとても短くスッキリしていた。

ダビデのルーツにあたるボアスの妻となったルツの物語だが、ルツは最初、ベツレヘム出身の男エリメレクとその妻ナオミとのあいだにできた二人息子のうちの一人と結婚していた。もう一人の息子もオルバという女と結婚していた。ところが、エリメレクも二人の息子も死んでしまって、姑のナオミは二人の嫁と別れようとするが、ルツは最後までナオミにつきしたがい、エリメレクの故郷であるベツレヘムへナオミとともに帰国する。そこでボアズという男と再婚してオベドを生むが、オベドからはエッサイが生れ、エッサイからはダビデが生れた。ダビデはのちにイスラエルの王となり、イスラエルを世襲するが、そのことだけでルツが聖書に残る物語として一巻をなすとは思えない。

『ルツ記』はとても短いが、じつのところ複雑で、なにげないことがこまごまと書いてある。このなにげないこまごまさにきっと深い意味があるのだろう。ルツは気立てがよさそうで心根も優しそうだし、新しい夫となったボアズも筋を通す立派な人格者として描かれている。二人は出合うべきして出会ったかのようだが、この二人が結ばれるまでにはそれなりの手順があって、「郷に入れば郷に従え」の諺のごとく、そこにイスラエルの慣習があり、律法があり、手続きがあり、約束事があり、道義を守って婚姻し、子宝を成せば己ずと良い結果がうまれるという戒めのようでならなかった。これが『ルツ記』の感想だ。


*わたしの祈り;昔からよく見知っているポール・デルボーの画集を先日見ていて思ったのですが、目のいいときよりも目が悪くなってかえって良く見える箇所があった。そんなふうにして、たとえ不自由なことがあってもなに一つ嘆くことはないのだと勇気づけられたことがある。今後これからもそうした豊かな気持ちでいられることを祈ります。



| 聖書100週間/未完 | 10:19 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書23/100週間

                 *上記写真と下記文章は一切関係ありません。
『士師記』第6章〜第16章を読む


旧約聖書を読むたびに「なぜ、なぜ」と疑問に思わない日はなかったが、「士師記」でもおなじだ。

士師という指導者的英雄がいるうちは均衡がとれているが、士師が死ぬと民は堕落し、他国から厳しいあつかいを受け、やがて疲弊する。「喉もと過ぎれば熱さ忘れる」人とは自分を含め、いつの時代であってもこのように愚かなものであり、油断するものなのだろうか。

ヨシュア以来、オトニエル、エフド、シャムガル、バラク、ギデオン、ヨタム、トラ、ヤイル、エフタ、イブツァン、エロン、アブドン、サムソン、これらみな歴代の士師であり、士師があらわれるたびごとに民は救われますが、そのごとに主はやきもきとし、たえず御使いを送ります。このようにして、神の変わらない愛の優しさと辛抱強さ、優しさの裏返しでもある恐ろしさを見るにつけ、おかしいほど滑稽なのは人のしたたかさです。

主との契約において人は嘆願し、救われ、咽喉もとを過ぎればその契約にそむき、堕落し、侵略され、ふたたび改心し、主にまたもや嘆願し、救われ、堕落し、と………契約と契約破棄をくりかえしながら再契約してゆく甘ちょろい旧約聖書の循環物語に、正直、嫌気のさすことがたびたびあった。

しかし、旧約聖書をここまで読み進んできて思いあたったことがある。このくり返しは実のところ、非常に大切なことなのではないだろうかと云うことだ。たとえば、一つの信仰にこりかたまった堅牢強固な民族がいたとすれば、それはカルトとなり、ファシズムとなるだろうから………永続、あるいは持続可能な状態とは、常に動的な状態でなければ存続することがかえって難しいかも知れない。たとえば強震構造の建物は、堅牢強固なものでは決してなく、たえず揺れを内包しているラーメン構造のようなものであり、揺れを揺れでもって静止させる仕組みになっている。人体が“生命”として存続してゆくためのシステムやバランス、これも動的な仕組みになっていることは立証済みだろう。そのことを考えると、堕落する人々がいるからこそ、永きに渡ってその神とその民との関係性を保持しつづけられるのかも知れない。これが今週の感想だ。


*わたしからの祈り;このところの社会現象であるケータイ人間たちを見るにつけ、オフィシャルな場であっても個人主義をつらぬき、あくまでも個々の密室性を保有したままでいるが為、電車の中や本屋さんでの目障り耳障りなケータイ人間や、歩行の迷惑になっている人々と出会うたび、これはケータイを媒介にしたカルトだなと思うことがある。

先日ここでもお話したように、バッグの外へこぼれ落ちているかのように見えたICカードの持ち主(若い女性)にそのことを指摘したところ、「置いてある!」とヒステリックな返答をされてとまどったことがある。まさしくそのような環境で育てられた(飼育された)としか考えられないような対応だ。この場合、ケータイを使用していたわけではなかったが、すでにネイルの爪先と同一化したような格好でケータイを握っていた。

親切に(別に親切の押売りをしたわけではないが)されたにもかかわらず、自分の部屋へ土足であがられたような剣幕だ。視野が狭いというか、危険というか、社会や広告にあおられて、なにごとも便利で楽しいのはわかるが誰はばかることのない自由主義! 昨今のケータイの頻度とあの距離感では、まるでケータイの奴隷のようだ。

それがいかほどのものであるか、使い方をもっと工夫して『出エジプト記』と行きたいものだ。



| 聖書100週間/未完 | 11:19 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書22/100週間


『ヨシュア記』第13章〜第24章/『士師記(ししき)』第1章〜5章を読む



今日は『士師記』第二章八節あたりを読もうか
士師とは 神から遣わされたカリスマ性ある英雄のこと

百十歳で生涯を閉じたヨシュアの後
イスラエルは新しい世代となる
これはよろこばしいことであるが
彼らの行為は神の目に悪と映ることが多かった
神は士師を送り その世代をいさめ 導き 救済するも
士師の存命中はともかく 
士師が命をまっとうしてしまうと
彼らは邪曲(よこしま)をおこなって 堕落し またも神にそむく
神は怒って彼らをしばし見放そうとする

そんなことが書いてある

これを読んで わたしは想う 
我が国の 今を
大人も子供も携帯に首っきりで
相互の関係は一元化し 
コミュニケーションが欠落していることを

先日 わたしは電車に乗ってウトウトと眠っていた
フッと目をさまして辺りを見たとき
右隣りに空席をひとつ空けて若い女性が座っている
女性は空白の座席へバッグを置いたまま足を組んでいたが
そのバッグの外側にICカードのスイカが《こぼれ落ちていた》と云うか
明後日(あさって)の方向へ女性がむいていたので
わたしにはそのようにしか見えなかった
「スイカが落ちていますよ」と彼女に打診すると
「ほっといてよ、置いてあるんだから」ときたもんだ
女は憮然と立ち上がって別の車両へ歩いていった
目の前に座っていた中年女性の目がぱちくりとしている

かわいそうに
いままで 君にだれもなにも云ってくれなかったんだね
君は随分おもいどうりに生きているようだが
ぜんぜんおもいどうりなんかじゃないよ 君は………

こんなバカげた話しはキリがなく
道の真ん中でガヤガヤとしゃべりながら頓着しないとか
目の見えない人が杖をついて歩いていても
そのままのスピードで突っ込んでゆく自転車
キャリーバッグをゴロゴロと無頓着にころがして
他人の靴の上を通り過ぎてもちんぷんかんぷん
まったく融通がきかなくって自立のない
坊ちゃんや可愛子ちゃん
他者とはなんの関係もなく 信頼も持たないで
昨日今日の場当り的な価値観だけで生きている君たち

だが しかし このことは 
なにも新たな世代だけの責任ではなく
社会 つまり大人や国家のありかたが問われなければならない

話しが『士師記』から随分と横道へそれてしまったが
この第二章八節に書かれてあることは
新たな世代がうんぬんと云うよりも
ヨシュアがいなくなって
回りの大人たちが次第次第にゆるくなり
かたっくるしい緊張から解放されて
規範を乱しはじめたという気がしてならない
あるいはこれは人から聞いた話しだが
その時代
約束の地であったカナン地方が鉄器文化で
イスラエルはまだ青銅文化だったとか
そこでその地方の文化にだれもが魅了され
自分たちの先祖神を放棄しはじめたのでは と

われわれは 緊張 解放 崩壊 建設を
四、五十年の周期をもってくりかえしている
よほどでないかぎり 自分とはおおよそのところ
その時代の空気の中でしかリアルに生きれない

であるからこそ
人はだれと出会い
なにを見
なにを聞き 
なにを考え
なにを成しえ
どのように生きればよいか
森羅万象ことごとくから
人は謙虚に学ぼうとしなければならない


これがわたしの『士師記』第二章八節あたりの感想だ



| 聖書100週間/未完 | 11:19 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書21/100週間


『ヨシュア記』第1章〜第12章を読む


主とモーセの意志をついだヨシュアによって、ヨルダン川の西側をことごとく征服することができた。このことは、主とモーセが行なったように、ヨシュアの力だけでは成すことはできなかった。かといって、主だけでも成すことはできなかったろう。そこには選ぶものと選ばれたものとの共同作業、先祖神にたいする信仰と畏怖心があったからこそ、神と人とが共同で成しえた結果だと思う。エジプトを出て以来、さまよいつづけるなかで、徐々にではあるがそうした時間のなかから民族主義が形成されてゆき、それがこの民族のストーリーとなって、ヨシュアとイスラエルの民がヨルダン川を渡るころにはイスラエルの力の恐ろしさが、すでに各地には鳴り響いていた。

このようにして、「ヨシュア記」は神の力、指導者の力、民の力、時間の力を味方にしての約束の地カナン征服の記録だと思う。しかし、古代ユダヤ教とはいえ、冷酷無比で、あまりにも残酷であり、それらの行為は蛮族とよばれる人々となんら変わらないと思う。

そのような事柄がつもりつもって………、結果として、この宗派が他民族国家への驚異となり、怨嗟となって、はては青年キリストを十字架へ掛けさすはめになってゆくような気がしてならない。だが、このいちだいイベントによって青年キリストは、あるいは宗派は、これよりあらたな息を吹返すことを考えれば………、それが当初よりの主のみはからいであったとすれば。なにごとも見通している舞台監督のようで、ただただ圧倒させられるばかりである。



| 聖書100週間/未完 | 15:55 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書20/100週間


『申命記』第27章〜第34章を読む


申命記を最後の章まで読んでみたが
旧約聖書における

創世記
出エジプト記
レビ記
民数記
申命記

これらを合わせまとめて『モーセ五書』と呼ぶそうな
あるいは律法(トーラー)とも言うそうな
そのことをわたしは申命記の最後あたりで知った
モーセはエジプトのヘブライ人の家に生れたが
男子殺害を命じたファラオの命令を逃れるために
ナイル川へ流された
しかし
皮肉にもファラオの王女に拾われて
「水のなかからわたしが引き上げた(モーセ)」と名付けられた
彼はやがて 
先祖神である〈荒ぶれる神〉の命令により
エジプトの奴隷状態であったヘブライ人を率い
エジプトをでて
約束の地カナンをめざし
四〇年間にわたって荒野をさまよった
その間に神から十戒をさずかり
イスラエルの民にその律法をあたえた
また レビ記 民数記 申命記においては
モーセの生涯や 戦法 幕屋のつくりかたをはじめ
律法の内容があらたに記されている

ここまで読んで感じたことは………

モーセは〈荒ぶれの神〉である先祖神と
愚かな同胞(人間)との間を必死になってとり持とうとした
孤独なメッセンジャーであったと思う
申命記三十三章「モーセの祝福」を読んでみると
そこには神からのあたたかい眼差し
愛と祝福が述べられていた
そのことは
神だけでは絶対に成立することができず
また モーセだけでも成立しえない
神と人との共同メッセージがそこにあった
このことが新約へとつづくのであろう




| 聖書100週間/未完 | 00:53 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書19/100週間


『申命記』第12章〜第26章を読む

イスラエルの民への掟と法に関する手引が、またも12章から延々と書かれてあった。それをこまごま述べるのは大変なので省くが、17章14節に「王に関する規定」があったのでそのことについて少し考えてみたい。そこには指導者となるべき人物=王の資格についての戒めや規定が手短に記載されてあった。中でも〈金銀を己のために多く蓄積(たくわう)べからずや〉とあった。〈己のため〉とか、〈多く〉という戒めの言葉が印象的だった。しかし、力あるものは力ある金銀の魔力に惑わされやすく、公私を混同し、私腹を肥やすことに専念しだす………。 まあ、断頭台の露と消えることもあるが、存外、神は寝てでもいるのか、ほとんどの場合なしくずし状態のままである。旧約聖書に登場する「熱情の神」ならいざ知らず、この時代、だれがそのお裁きを下すのだろうか? 

時として、神は懸命な市民の姿をしている事もある。


Mからの今週のKey-Word;朝日新聞(3/20)の朝刊に「政権揺さぶる高額賞与」という見出しでAIGの高額ボ−ナスについての記事があった。読んでみると、「オバマ政権を揺るがしている」とのこと………つまり、またぞろのウォール街の強欲さについての問題をめぐる混乱がそこに記されてあった。その後、ラジオを聴いていたら、市民からの抗議メールや電話が殺到したそうで、公的資金注入を受けたAIGのボ−ナス報酬から90%の税金を徴収するとのことだった。「え! 90%も………」と思う人がいるかも知れないが、これはしごく当然のことであって、健全なことであろう。儲けた人から税金を取得し、それを皆で分配する。経済原理としてあたりまえのことである。ましてや、公的資金を受取ったAIGの幹部連中なのだから。

われわれ日本人も、グチをこぼして誤魔化していたり、テレビの娯楽番組にうつつをぬかしてガス抜きばかりをせず、汚い首は断頭台にしっかりと送るべきだろう。



| 聖書100週間/未完 | 10:48 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書18/100週間


『申命記』第5章〜第11章を読む

「寄留舎を愛しなさい」という言葉はこれまでにも何度となくでてきたが、『申命記』の10章においてようやく心に響いたような気がする。

イスラエルの民以外や自分の気にいらないものはつぎつぎと排除したり殺してしまう「熱情の神」が唱える教義を、エトランゼである私がなぜこうして学ばなければならないのか? 学ぶ必要なんてないのではと考えていたからだった。しかし、今回の8章、9章、10章、11章は衿を正して読むことができた。たぶん、モーセという一人の人間のひたむきな態度によって、イスラエルの民が救われつづけてきたことにも原因しているかも知れない。「熱情の神」とはいっても、けっこうお人よしな面もある。


Mからの今週のKey-Word;主である「熱情の神」は、イスラエルの民の眼前で大いなる御業をリアルにくり返しているにもかかわらず、民はおなじ過ちをたえずくり返している。わがままな人間の所業こそ、主であってもどうすることもできない! のであろうか? 主と民との板挟みになったモーセこそ、偉大なる人物であったかも知れない。



| 聖書100週間/未完 | 01:45 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
聖書17/100週間


『民数記』第26章〜第36章/『申命記』第1章〜第4章を読む

先週にひきつづいて、今週もイスラエルの共同体における二十歳以上で兵役に就ける者を人口調査した『民数記』を最後まで読んだ。そして、モーセの遺言とも言うべき『申命記』を新たに読んでみた。が、さてさて、旧約聖書はユダヤ教であって現在のキリスト教とは随分と違っているとはいえ、なかなかもって合点のいかぬことばかりであった。

今度読んだ『申命記』についてだが、イスラエルの民はエジプトを出て約束の地であるカナンへ向かう途中、荒野を通って苦難の旅が延々とつづいているが、はたして、約束の地“カナン”とはいかなる場所であったのだろうか。今から何千年も前のことであり、地球は現在より格段の広さであったろう。それを考えれば空地はいたるところにあったと思う。どこへ辿りついてどの場所を自分たちの国にしょうがたいしたことではなかったと思う。しかし、この辺り一帯は世界最古の文明地であるシナイ半島で、チグリス・ユーフラテスと呼ばれる肥沃な大地で、数々の勢力の基盤になっていた土地柄である。そのことを考えると、約束地“カナン”とは東京でいえば新宿の裏手にある新大久保や、霞が関の土手下にある赤坂のようなものであって、やすやすと手に入りそうであって、その実そう簡単に手に入らない場所ではないだろうか。現に第1章ののっけから、ヨルダン川の東側に君臨していた王たちを、イスラエルの神の名のもとにつぎつぎと侵略し、殺戮や略奪をくり返している。

『民数記』のように事が同族間の戒めや争いごとに関してであれば、それがどれほど厳しかろうが別に頓着はしないが、『民数記』で軍隊を編成し、その力でもって邪魔者を制圧してゆく姿には、“自由の国アメリカ”という身勝手な価値観を唱えながらネイティブな人々が住んでいた土地を次から次へと自分たちのものにしていった奇兵隊やカーボーイ、それらを底支えていたアメリカという国の姿がオーバーラップしてならない。これが今週の感想です。



| 聖書100週間/未完 | 11:56 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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