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ネイキッド・タンゴ



目隠しをした楽士とその楽団

剥き出しの愛とネイキッドなタンゴ(Naked Tango

自殺者と海

太陽がいっぱいと暗闇がいっぱい

航海と亞爾然丁(アルゼンチン)

ブエノスアイレスと娼館

ガウチョとルドルフ・ヴァレンティノ

喧嘩と短剣

黒い皮靴と白い脚半(スパッツ)

伊達男と度胸

フェラーリのような女と運命

車とドライバー

事故と殺人

闇と金

ポーランドの花嫁とユダヤの花婿

イタリアン・ギャングと殺し屋

美学とストイズム

エロティシズムとファム・ファタル

宿命と快楽

髪と乳房

変身と髪切り男

カマキリとオカマ

両性具有と人間人形

退廃とキャバレー

ライザ・ミネリーと山高帽

ブレヒトとリリー・マルレーン

三文オペラと操り人形

ベルリンと街角の石畳

苦悩と孤独

殺人と暗殺

死とカンフル剤

心が剥げ堕ちてゆく世界と心が裸になってゆく世界

傷ついた女と傷ついた男が踊る死の舞踏

タンゴと難度

剥き出しのタンゴと剥き出だされた人間人形の中の髪切り男

屠殺と血の海

天国と地獄

様々な生き方と俺の生き方

俺様と剥き出しの映画「Naked Tango/ネイキッド・タンゴ」

鑑賞ととはずがたり


*今日の一曲はA.ピアソラの「El Ángel - Milonga Del Ángel/天使のミロンガ」です。本当は「Milonga Triste/悲しみのミロンガ」にしたかったのですが、残念ながら、動像が見当たりませんでした。



 
| 映画 | 10:29 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
大人は判ってくれなくていい


「國」という正漢字は、国境を意味する四角い囲いのなかに「人」を意味した口と、軍隊を意味する「戈」の文字が収められていると聞く。

人は戦いなどせずに、やさしく生きていたいと願っていても、極みが侵略されて同胞の男たちが虐殺され、女が暴行をうけたなら、あるいはそのようなことが過去にあって、もしそのような話しを老人から聞いたことがあり、いま極みの外にそれらの輩がいたならば、わたしは戦う。それとも、こざかしく腰を曲げて見せながら、エへラエヘラと生きてもみようか。


金持ち相手に養子縁組させるバイヤーが、子どもたちが少しでも可愛く見えるようテディベアを抱かせてポートレート写真を撮るの図

                 *

原題が「ITALIANETZ/イタリア人」で、邦題は『この道は母へとつづく』という映画はそのように大袈裟なものではなかったが、ややもすれば安っぽいものになりかねない人生に、生活の目的である使命を果たしてくれた少年の物語であった。

解説や筋書きはインターネットの検索エンジンを作動させればいとまないほどあるだろうから、ここではそれらの情報に任せてみたいが、書きたいことがあるから多少はかいつまんでおいてから、心に残ったことを書いてみたい。

臓器移植用の“部品”が目的なのか、真に子育てが目的かはともかくとして、六歳の少年ワーニャ(コーリャ・スピリドノフ)のところへ養子縁組のためにイタリアの金持ちがやってくる。しかし、ワーニャには思うところがあって孤児院を脱走するも、孤児院と金持ちの間を取り仕切っている通称マダムと呼ばれている女のパシリをしている男に、とうとうエンディングで追いつめられてしまう。


  ひなびた街角で
  手負いの男が少年を追う
  雨は降りそそぎ
  逃げ場をなくした路地の一角で
  少年は
  絶望をし
  空をくるくると見上げては
  落ちてくる雨粒の下
  チラと目にしてしまった空壜を手に取って
  袋小路に建っている煉瓦の壁へ
  その壜を叩きつけながら
  まるで映画『ブリキの太鼓』のオスカル少年が
  タカタカ・ターンと半狂乱になって太鼓を叩くときのような
  そんな恐ろしい顔をして
  「見ろ! お前なんか怖くない」と言いながら
  小枝のような細い腕へ
  何度でも 何度でも
    何度でも 何度でも
  ノコギリの刃のようになった壜を叩きつけ
  血みどろになるまで叩きつける

  男はついに
  たった六歳の気迫に呑まれ
  どうしょうもなく抱きしめながら
  あたたかく抱きしめて
  「行くところがあるだろう? だったら行け!」と
  言ってしまう
  取るに足らなかった男が
  人としての品格を
  ここにおいて取戻す
  『この道は母へとつづく』は
  そのような映画だった


と、こんなふうに書いていくとキリがないが、大人に追いつめられてしまった少年が頭上に残されたたった一つの空間に思いをはせてはみたものの、鳥にはなれず、自分自身の肉体へ開口部をみつけ出してしまうエンディングのエネルギーはとても重く、そして尋常ではなかったが、ぞっとするリアリズムがそこにはあった。

凶を見せ吉を見せながら現実の戸板がくるくると回転しながらエンディングへと移行してゆくこの映画は、別の意味において、フランソワ・トリュフォー監督の映画『大人は判ってくれない』のエンディングを彷彿とさせてくれました。『大人は判ってくれない』は少年鑑別所から脱走した十二歳の少年アントワーヌ(ジャン=ピエール・レオ)が、小鳥のさえずる野山の小道を走りに走って、自分自身の開口部を海へ見つけ、不安な表情のままストップモーションで終るという象徴的な映画であった。このときに見せてくれたジャン=ピエール・レオの表情と、イタリア人というニックネームで呼ばれている少年コーリャ・スピリドノフが“行くべきところ”へ辿り着いたときに見せる夢のような表情が相似形をなして、いまだ少年の心が青カビのように揺らいでいるであろうわたしの肝へ重なってならなかった。

不安げな少年たちや、夢のような少女たちに受皿はあるだろうか。

映画『この道は母へとつづく』の終盤、たとえマダムのパシリであったとしても・・・パシリであったからこそかも知れないが、幸いにも、その男が資質としてのレセプター(受皿)である扉をこじ開けることができた人間であったから良かったものの、もし性根がねじ切れた人間であったなら、小枝のような少年は泥にまみれ、雨の中でとっくに死んでいったであろうに。


*フランソワ・トリュフォー監督の映画『大人は判ってくれない』原題は『LES QUATRE CENTS COUPS』直訳すると『400回の殴打』




| 映画 | 00:14 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
フェリーニの『道』を読む

                      海の女と鎖切り男

フェデリコ・フェリーニ監督の映画『道』は獣人間と鳥人間、そして人魚の物語だと思う。鎖切りの芸人の大男ザンパノは野生むきだしの粗野な男だが実は寂しがり屋さんなのだ。それに反し、綱渡り芸人のイル・マットはフランチェスコのお説教に耳を傾けることができる小鳥みたいに飄々とした男だ。しかし、それが禍 してザンパノに殺されてしまう。ジェルソミーナとう人魚をめぐる痴話喧嘩が原因だが、やがて人魚は海の藻屑と消えてゆく。


             別れ道はまだ遠く

ジェルソミーナが人魚の由縁は、海の近くでいつも裸足のままギクシャクとあちこちぶつかりながら歩いているからだ。


*今日の一曲
ニーノ・ロータのLa Strada (道)より・・・最後まで観てね!



| 映画 | 11:40 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ペイルライダー
地上の人間を殺す権威を与えられたヨハネ黙示録の四騎士
その第四の騎士ペイルライダー(蒼ざめた馬に乗った者の意)の名を捩った映画『ペイルライダー』をTVで見た
監督はクリント・イーストウッドで主役の牧師=ガンマンを当人がやっている
牧師とは文字どうり神の視点をもった死神=ペイルライダーである

仕事の都合上途中から見たのだったが
最後の決闘シーンが心に残ったのでそのことだけを書いてみたい

ソリッド・フレーム式拳銃の銃身下に付いたレバーをカックンと下げ
テコの応用でシリンダー軸を水平に移動して
糸巻きのような格好をした予備のシリンダーを悠々と交換しながら
これみよがしに悪徳保安官一味を挑発するも
ペイルライダーのクリント・イーストウッドは不意に姿を消してしまう
司令塔として町の広場で身動きしないでいる連邦保安官を中心に
雁首を揃えた六人の手下(副官)たちは 
狭い町のなかを散り散りになって彼を探しはじめだす
この時点でペイルライダーのペースに7人はすでにはまっているが
ペイルライダーの動きにムダがないため そのことが分らないでいる
一人の頭脳と二本の腕(ペイルライダー)
一人の頭脳と十四本の腕(悪徳保安官一味)
そしてつぎつぎと殺されてゆく手下たち・・・

このとき 普通は「映画だからしょうがない!」とか
「上手く出来過ぎぎている!」とつい悪口を云ってみたくなるが
じっと見てさえいれば出来過ぎているシーンが
実はリアリズムにもとづいていると云うことが良くわかるであろう
ヘビに睨まれたカエルが身動き出来なくなってしまうように
集団の場合に多々起きうる出来事であって
事がはじまってしまうともう後戻りが出来ないでいる場合なのだ
映画『ペイルライダー』の場合
修羅場と化した状況下で
町の権力者に銭で買われたボス格の連邦保安官は
このとき瞬時に頭を切替える必要があったはずだ
残っている手下を一旦よび集めておいてから
ペイルライダーの正義感やプライドを逆撫するような罵声を吐き
彼を広場へとおびき出すべきであった(逆撫とは頭を使うから膠着している者にとってはどの道ダメだろうが)
そして 現代(いま)と違って携帯や無線がない場合であっても
仕事師と称する一味であれば 
〈乱打の発砲〉で幾つかの暗号を事前に取決めておくべきであったろう
ところが 流れを変えられないままだらだらと皆殺しにされてゆく
存外このことは現実的なのだ!
無能な上司や指揮官がうろたえたときなどよく起こりうる“事故”なのである

“事故”という認識のないまま事がどんどんと先へ進んでゆく穴には 
現状の問題よりも 見事なまでの伏線図が事前に張られてあって
魔法や催眠術のような目眩しが隠されている
欲に油断している者はその目眩しに曳き連られつづけるのである

牧師が名うてのガンマンへと変身したことへの幻惑!?
珍しい拳銃のシリンダーを悠然と交換することによる威圧感!
ペイルライダーの姿がふと消えた後
黒いテンガロンハットだけが現場に残されていることへの目眩し的擬態?
などなど どれも出来過ぎていてついカッコいいとほくそ笑んでしまうが
このことはあくまでもレトリックであって
これに類する場合 
うろたえた者の目ン玉にはそのことや擬態がしっかり映っていても
事があまりにも鮮やかすぎて
意識としては認識できていないという誠に空恐ろしい出来事なのである

とどのつまり
その人間にいくらカリスマ性があろうが
デキが悪ければその大将に踊らされる者は黙示録の四騎士によって
いずれ地獄へと向かってつき進む・・・
映画『ペイルライダー』は再度そのようなことを教えてくれた



 
| 映画 | 02:04 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
ランパリータと呼ばれた娼婦と鯨


人生とは旅そのものですが、定まったところで生活していると、そのことを案外忘れてしまいます。そして人生の縮小版である“旅”をしたとたん、自分とは誰でもない存在であることを知らされます。地位とか名前とか、親や子供や妻や夫との関係は希薄となって、回遊の本能のままに生かされてゆきます。逆説的にいえば、このことは日常生活においても同じだということです。

話しが少し大袈裟になってしまいましたが、ルイス・ブエンソ監督の映画『娼婦と鯨』(2004年/アルゼンチン=スペイン製作)はそのようなことを考えさせてくれます。

2003年のスペイン、乳ガンに冒されて人生の岐路に立った女性作家ベラは夫や子供、恋人と別離して、1933年にブエノスアイレスで起きた出来事を取材します。ベラは乳ガンという苦悩をかかえたまま、スペイン内戦で命を失なった写真家エミリオとその恋人ロラの恋路をパタゴニアにあるバルデス半島に取材するうちに、過去と現在とを往き来しはじめます。時空はよれてねじれてゆきますが、整合性を追うことはあまり重要ではないでしょう。映画にはよくあることですから筋道を根掘り葉掘りとバカ正直に問い正そうとすればするほど、服を着たままで海へ入ることを誘うロラがそれを嫌がったエミリオにむかって「ポケットのお金を濡らすのが怖いの」と挑発したように、真に大切なものの前で、我々はエミリオ同様に立ちすくむほかありません。そんなことよりむしろ、どのような時代であっても変わることのない人間の歓びや哀しみの本性をどう嗅ぎ分けるかということを感じることこそ、この映画『娼婦と鯨』の見どころではないだろうか。

妙なタイトルである『娼婦と鯨』には盲目のバンドネオン奏者スアレスという男が登場します。彼は写真機という機器を通しながら人をたえず眺めているエミリオとは異なって、気配や匂いから過剰なまでの情報を入手して、本能的に人へと迫ります。その生き方はけっして優等生ではありませんが、観るものを引き付けてやみません。エミリオの恋人ロラもスアレスの膝の上で“シ”の音や匂いを発散させながら、ミファソラと身をのけぞってロ短調まがいの曲調を小刻みに震わせ悶えくり返します。そんなロラとベラは相似形をとりながら、現実世界を生きているベラ(あるいは観客)はもう一人の自分自身と徐々に向かいあってゆくこととなります。向かいあうということは知ることであり、知ることは綴れるということであって、映画の後半より、主人公ベラは作家家業としての執筆をはじめます。彼女が叩きだすキーの配列は映画そのものとなって、『娼婦と鯨』の原作となってゆきます。

娼婦としてなるべくしてなったロラがエミリオにむかって「価値と値段は違う!」と吐く短い台詞には、人が人を愛することによって傷ついてゆく不透明で捕らえどころのない絶望や自滅に対するアンチテーゼのような苛立ちがそこにはあって、そのことは〈水平線のむこうに広がった見えない水平線〉から死を覚悟しながらふたたび人間界へと回遊してくる歳老いた鯨の魂と重なり、この映画全体の核になっているようでなりません。そのことへの表徴が盲目のバンドネオン奏者スアレスの野獣性であるのかも知れないし、フレームいっぱいに出現する約100歳を生きつづけてきた一匹の鯨であったかも知れません。

あるいはまた、股間に真空管のような円筒形の電球(ランパリータ)を挿入したまま、二本足でタンゴを踊る希有な生き物(娼婦=ロラ)が持ちあわせた渇きからくる、それは永遠にひび割れたあやまちや戦慄への懺悔であったかも知れないが、とりもなおさず、そのことは左乳房を喪失した主人公の戦慄であり、焦燥であり、懺悔であり、愛であったろうに・・・たえず揺れうごく不安定な魂こそ、どこをどう旅しようが絶対に免れることができないでいる、それは人間の宿命であり、本性なのである。

であるこそ、人はだれもが優しくなれるのだ! と、映画『娼婦と鯨』はそのことをしっかり物語っていた。




| 映画 | 19:26 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
パルナサス博士の馬車 vs 軍艦茉莉号


人間の気まぐれによって滅び去っていったものたちが、鳥人間と魚人間のウエディングによってリカバリーされる物語『スワンスキン』(これに登場する仮面とDr.パルナサスの鏡に登場した仮面が偶然にも類似する)を今ぼちぼち描いておりますが、悩んでいることが一つありました。しかし、テリー・ギリアム監督の映画『Dr.パルナサスの鏡』を観ているうちにそんなものは吹っ飛んでいってしまいました。悩みの種はなんとも他愛ないもので、ドラゴンが跋扈する時代にクラシカルな格好をした主人公が馬ではなく、赤いオートバイに乗って走り回っている事柄についてでありました。どのみち荒唐無稽なお話しでしたので馬であろうがオートバイであろうがどっちだってかまやしなかったのですが、それなりの納得をいつも欲していたからです。

悩みが一瞬にして吹き飛んだ要因は馬車にありました。

『Dr.パルナサスの鏡』は見世物小屋の舞台を木造馬車の内部にパッケージングした古めかしい三層建ての住居兼用劇場として、2007年ロンドンの街角に突如! 登場させています。馬車はトロイの木馬のようでもあり、横ッ腹から可憐なユリの花ともオモチャともつかないような妖精や兵隊、魔法の鏡や森をがらがらポンと夜の空地へ咲かせて見せます。一座の長は1000歳以上だという老人で、その人こそがパルナサス博士であって、座員は十六歳になったら悪魔の花嫁にされてしまう博士の娘と若い曲芸師、それに頭の回転のはやい小人の四人等・・・そこへ橋の下で首を吊っていた男(ヒース・レジャー)が加わって、山高帽をかぶった悪魔(トム・ウェイツ)も騒がしく出入りしながら旅はいっそう面白くなってゆきます。

もうこの馬車を見ただけで強い力がはたらいて、チャチな悩みは治癒してしまいました。

斜め横へひッ傾いたノッポの馬車は、ジェノヴァやヴェネツィアのカラック船の船尾にあった船長室を彷彿させます。そしてその古さから、永遠に駆逐され漂流しつづけなくてはならない憐れな軍船をいやがうえにも妄想させます。船長は凄腕であるにもかかわらず、たえずなにかに脅えつづけている。このキャラクターはパルナサス博士そのものでありましたが、ボート競技の選手であり、美貌の青年であったにもかかわらず、関節炎から右脚を喪失せざるをえなかったヒロイックな詩人・安西冬衛がタロットカードの吊るされ男のようになってさえも吐露して見せた、あの有名な詩集『軍艦茉莉』の軍艦や艦長すら思いださせる。


・・・・・・略
私は艦長で大尉だつた。
娉娉(すらり)とした白皙(はくせき)な麒麟のやうな姿態は、
われ乍(ながら)麗はしく婦人のやうに思はれた。
私は艦長公室のモロッコ革のディヴァンに、
夜となく晝となくうつうつと阿片に憑かれてただ崩れてゐた。
・・・中略・・・
「茉莉」は疫病のやうな夜色に、
その艦首角(ラム)を廻しはじめた--------

                     安西冬衛『軍艦茉莉』より抜粋


安西冬衛の『軍艦茉莉』は、ヒース・レジャーが睡眠剤「アンビエン」を服用しながら鬱々としていたであろう実生活とオーバーラップしてならないが、現実的な生活だけではなく、映画の中においても不可思議なスタンスのまま突如、他界してしまった。Dr.パルナサスの“鏡”のむこう側へとヒースを本当に消滅させてしまったこの映画は、彼があまりにも素晴らしいはまり役だっただけに未完の感があることをいがめない。が、しかし、ヒースの意志を途中から引継いだジョニー・デップは束の間の登場であったにもかかわらず、ブルジョワの太っちょオバサンに代わってわたし自身を鏡の世界へぐいぐいと引きづり込んでやまなかった。

・・・さてもさて、トム・ウェイツは大好きなアーチストだが、今回はズバリ! 始終パイプ(キセルかな)をせっかちに持ち替えすぎてこちょこちょしていたのが玉に傷、役づくりにはりきり過ぎてまだまだでした。




| 映画 | 22:25 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
仮面の告白


テリー・ギリアム監督の『ブラザーズ・グリム』にみる深い森には沢山の道があって、道は素顔のわからない仮面のように人の心を惑わせている。そして、深い森の中心部には恐ろしい“鏡の魔女(女王)”が棲んでいるが、人はなぜかその奥深き内部へとそそられてゆく。まるで自身の深層意識をあばくがごとくに。




嬉しいのに悲しかったり、悲しいのに笑ったり、泣いたり怒ったり怖がったりと。あるいは、若いときの顔と年老いたときの顔。そんなふうにして、わたしたちはたえず仮面を被っているのではないだろうか。だから自分でさえ自分の素顔はわからない。




“鏡の魔女(女王)”とは大きな力なのでしょう・・・それはコンプレックスであり、葛藤であり、願望であり、記憶なのでしょうが、普段は隠されていて、夜ひとりぼっちになると奥の奥のほうから現れでて、わたしたち自身を深い森の中へと誘い込むのです。そして“鏡の魔女(女王)”と出合ったとしても、必ずしもそれが素顔ではないでしょうし、ひょっとすれば素顔であるかも知れない?! “鏡の魔女(女王)”とはそういうものであって、一筋縄ではいかないのです。しかし、マット・デイモンとヒース・レジャーが演じてみせた『ブラザーズ・グリム』のラスト・シーンのように、わたしたちは深層意識と深く出合うことが時にあるのです。そんなとき、村の子供達が甦ったように、わたしたち自身、“わたし”から甦ることができるのです。




これは少し大袈裟ですが、自分自身の心を甦らせることができると、いままでの“わたし”とは違ったわたし以上の力あるわたしと出合ったような気持ちになっていきます。しかし、これもまた仮面であるのかも知れません。そのようなところに人間の複雑さや醜さ、面白さや美しさがあるのでしょう。




映画『Dr.パルナサスの鏡』の前売り券は今日買ってきましたが、はたして、この映画はわたしたち自身を映す鏡のむこうにどのような深層意識を見せてくれるのでしょうか・・・早くこいこい25日?!!(この日に見るのだ) 

機会あればこんど魔法についてもたわいなく書いてみたいです。


P.S.考えてもみれば、むかしから仮面が好きでよく描いていたなと思ったので幾枚かアップしてみました。イラストレーターとしてデビューしてまもない1975年、雑誌『話の特集』で描いた(書いた)絵草紙「PLANETARIUM」では鷹の仮面を。そして、1978年度朝日広告賞・表現技術賞を頂戴した作品ではアイマスクをつけた少年たちを描いている。

そしていままた、これは偶然の一致か『Dr.パルナサスの鏡』に登場する仮面を去年から描いているが、発想の原点はフェデリコ・フェリーニ監督の映画『道』に登場する鳥人間・イル・マットから由来している。



| 映画 | 17:26 | comments(8) | trackbacks(0) | pookmark |
Dr.パルナサスの鏡


モンティ・パイソンでおなじみのテリー・ギリアム監督の映画『ブラザーズ・グリム』(2005)が今日の午後1:30からテレビ東京で放映されます。魅惑的で奇想天外なテリー・ギリアムの最新作『Dr.パルナサスの鏡』が23日から上映されるからでしょうか? あるいは、ヒース・レジャーがグリム兄弟の弟役で出演しているからでしょうか? まっ、なにはともあれダビングをしてあるので夜のやってくるのが今から待ちどうしいです。

ジョニー・デップやトム・ウェイツらが出演する『Dr.パルナサスの鏡』には仮面がでてきます。そんなこととも露知らず、昨年あたりから描いていたスワンスキン・シリーズの絵のキャラとかぶっているようで、映画『Dr.パルナサスの鏡』が見れるのを今や遅しとワクワクしております。

わたくしめの愚作、スワンスキン・シリーズの『スワンスキン』とはトム・ウェイツが出演しているエドワード・ゲディス監督&アン・ゲディス監督の共同作品『都会の夜の一幕寓話/ベアスキン』から頂戴しましたが、キノコがにょきにょきと生えている『アリス・イン・ワンダーランド』(ジョニー・デップとティム・バートン監督とのコラボレーション七作品目)や、『Dr.パルナサスの鏡』からはなにが飛びだすのでしょうか・・・?

              * * *

このことは余談ですがヒース・レジャーが急逝した亡きあと、ジョニー・デップ、ジュード・ロウ、コリン・ファレルの面々が後を受け継いで登場をしているが、彼ら三人の出演料は全額をヒースの遺児である娘マチルダ(当時2歳)に寄贈したとか、愛のレベルがどこかの国とは相当に違うな! と、感心させられました。



| 映画 | 16:07 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
MJの遺書/This Is It


MJ(マイケルジャクソン)の
『This Is It 』を観 ましたか? 
と電話があった
まだだと返事すると
じゃ ぜひごらんになって
と語尾を引いたまま
電話は切れた

MJが死んだ日
彼の映像をあらためて観て
やっぱかっこいいな
と思った
だから
『This Is It 』は
観たいと思っていたが
寄る歳なみで
どうも腰が重い
電話はいい頃合いだったので
その気になって
ちいさな冒険をしてみた

そして『This Is It 』を観た

全編緻密なリハーサル
どの曲もすべてがほぼ全開で
正直 驚いてしまった
というか
『This Is It 』は
彼の遺書だな! 
と思った
こっそりと隠して
最後まで開かれることのなかった
あるいは
最後まで歌われなかった
MJの遺書
『This Is It = Heal the world
そんな気がしてならなかった

  * * *

わたしを癒やして
Heal the world
世界を癒やして
Heal the world
世界は高くて固い壁だから
わたしたちは
唯一かけがえのない
壊れやすい殻に包まれた
とても柔らかな卵だから
わたしを癒やしてくださいな
Heal the world
世界を癒やしてくださいな
Heal the world
世界空洞
萬人火中 
人生無常
わたしを癒やしてくださいな
世界を癒やしてくださいな
世界はもう
壊れかかっているのだから
ああ天国が落ちてくる
無関心はやめてくれ
だからもっと良い世界にしようよ
より良い場所をつくろうよ
あなたと僕のために
天地回復 

和開心
地球は泣いているのだから
自然は必至なのだから
この惑星は僕らの子宮なのだから


  * * *

シネマの中で
最後まで歌われず
世界を癒やしてくださいな
わたしを癒やしてくださいな
『Heal the waorld = This Is It』
「それはそれです」って
謎めいた 
遺書だけを残し
突然に死んでいった
MJという男の
『This Is It 』を
わたしは観ました

*文中、村上春樹氏のエルサレム賞スピーチ文から一部抜粋起用させて戴きました。


P.S.この映画『This Is It 』はラストのクレジットが流れても、絶対にお席を立たつことはなく、場内が明るくなるまでそのままでお待ち下さい。



| 映画 | 00:05 | comments(4) | trackbacks(0) | pookmark |
灰と雪とノスタルジア


いまさらながらかも知れないが、グレゴリー・コルベールのライフワーク映像『Ashes and Snow/灰と雪』を見て、アンドレイ・タルコフスキー監督『ノスタルジア』をふたたび見た。


  人間よ 耳を傾けろ
  君の中の水に
  火に
  そして灰に
  灰の中の骨に
  骨と
  灰に


上記の台詞は映画『ノスタルジア』のなかで“狂人”ドメニコがローマのカンピドリオ広場にあるマルクス・アウレリウス騎馬像の上で演説したときのものである。「この世界を存続したければ、手をつなぐのだ………(中略)、アスファルトや社会事業に占領された頭脳に虫の羽音を入れるのだ」「自然を観察すれば、人生は単純だと分る」「道を間違えた場所まで戻るのだ」等と唱えた後で、“狂人(聖人)”はガソリンをかぶって焼身自殺する。と、同時に、ロシアの作家アンドレイ・ゴルチャコフはドメニコが果せなかった世界救済へのアナロジカルな儀式、“ローソクの火を消さずに広場を渡る”の願いを果し、屋根のない廃院や、その院内へ横たわったアンドレイに雪を降らせて映画は終わる。

モノクロームな映像、静謐なカメラワーク、対比と融合、彼方への視線、羽根、雨のシャワー、郷愁、回帰、愛、贖罪、ローソク、水、夢、睡眠、開かれた古書が炎や風に揺れて………、ガラスの壜がころがる音と『Ashes and Snow』のファーストシーンでの音質、その音の移動性、手紙、犬という生き物、聖なる母、「メイドが主人の家を放火した」という台詞、ないしょ話し(抱擁)、etc.ときりがない。ふたつの映画における相似同一性と差異の不可思議!?


               * * *


  灰は火に 火は地に 地は骨に 骨は髄に 髄は灰に 灰は雪に

  羽根は火に 火は地に 地は骨に 骨は髄に 髄は灰に 灰は雪に 
  羽根は火に 火は地に 地は骨に 骨は髄に 髄は灰に 灰は雪に
  羽根は火に 火は地に 地は骨に 骨は髄に 髄は灰に 灰は雪に
  羽根は火に 火は地に 地は骨に 骨は髄に 髄は灰に 灰は雪に


こちらの詩は『Ashes and Snow』のなかで“鳥の道しるべ”と呼ばれた一通の手紙からはじまるナレーションを、俳優の渡辺謙がくり返しくり返しリフレンする箇所だが、他に………


  家が焼けても かえって月がよく見えるようになることもある
  ぼくは 自分のなかで放火したすべての楽園を眺めた
  手に入れてはみたものの 手放した楽園があった


などがある。

グレゴリー・コルベールのキャリアは1983年パリで手がけた社会問題のドキュメンタリー映画からはじまったと聞くが、1983年はくしくも、映画『ノスタルジア』がイタリアで製作発表された年である。ちなみに、『Ashes and Snow』は2002年にベネチアで発表されるも、その歳月には十年以上も費やしたとか。

『ノスタルジア』も、『Ashes and Snow』もともに素敵な映像だ。



| 映画 | 15:20 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
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