話しに夢中になったがため、すでに消えかかっている暖炉の炎に灰をかぶせ、その炎で点けておいた蝋燭を手に持って『オークの間』をでた。薄暗がりの廊下、メムリンクと伯母の部屋の前を通り過ぎ、さっき皆で夕食をともにした円錐形の東の塔、つまり主塔をめざして歩いた。足元を鼠のようなもが横切った。が、しばらく歩き、主塔の手前の階段をのぼった。二階へつづく階段の途中に広い踊場があって、壁には二〇〇号ぐらいの絵が一枚掛けてあった。しかし、ちょろちょろとした蝋燭の炎だけでは全体すべてを見渡すことはできなかった。しかし、その絵のことは目をつぶっていてもだいたい思いだせたが、光と影によるかたちは見えても、絵にどのような意味があるのかは解らなかった。どこかで見たような、見てはいないような、ぼんやりした白い絵で、書物に目を落した美しい少女が描かれていた。少女のうしろには塔があって、窓が三つある。塔はいまだ工事中であり、塔の上には石を積み上げている人々がいて、塔の下には石を刻んでいる石工や、石を運んだり、泥をこねる人々が描かれていた。唯一、空の色だけが青かった。
僕はメムリンクと肩をならべて、この絵をこうして二人だけで見たかっただけなのだ。しかし、そう思ったころにはメムリンクはもう夢遊病者のようになっていて、途方にくれて倦み疲れていた。しかし、絵の前へ佇んでしばらくぼんやりしているうちに、メムリンクの表情は少しづつ変化をして、気力のような、希望のようなものが眸の奥に彩りはじめ、生きる力をゆっくりと取り戻してゆくかのようであった。
「聖女。バァ、ルゥ〜、バァ〜、ラァ〜ッ」
「えッ!」
「バ・ル・バ・ラァ〜ッ」と、くぐもった声でメムリンクが呟いた。
「バルバラ!?」
「え、え〜、
聖女バルバラ。十二月四日が聖女バルバラの、祝祭日」
「ああ、知っている。バルバラのことだったら知っているさ」
「彼女はね、あの塔へ、父親に幽閉され。そして、最後にはその父親に首を、斬られて殺されたの」
「ああ、それも知っている。ただ、僕はこの絵を見るのがはじめなんだ。紅い衣を着た聖女バルバラが、ひとりぼっちで十字架を持って立っているイコン画しか知らないから」
「そうよね、東方正教会のあるこの地方じゃ、貴方が知っている、イコン画ばかりだわ。私はね、フランスのロール川下流にあるプロバンスでこの絵を見たの。そのときに知ったのだけれど。バルバラは実の父に首を斬られて、殺されたのよ‥‥‥。結局、私は、またもこの聖女バルバラの絵の前で、その方に抱擁をされ、私は私であらねばならないということを感知する。プロバンスでこの絵をはじめて見たとき、私は若くて、バルバラが感じていただろう憎しみだけを考え、私はヌヌという仮面を被ったの。ところがそれは間違っていた。貴方と肩を並べながら二人ぼっちで聖女バルバラを眺めていると、求めるものはもっと他にあった。と、バルバラのみ胸へふたたび辿りついてわかった気がする。バルバラに憎しみはなかった、と。そして、もっとも大切なことは、貴方と私の出合いはけっして偶然じゃなかったということを」
「偶然のように見えていて、すこしも偶然じゃない必然の出合い。きっとバルバラと父親の関係も必然であったのだろう。本来であれば、満ち足りた父親と娘との関係であったろうに、苛酷な運命を強い意志でうけとめざるをえなかった、どこにも居場所がなかったバルバラ‥‥‥」
「どこにも、居場所の、なかった、バルバラ。どこにも、居場所の、なかった、人、が、摘んで活けておいた野の花つぼみ。異教徒であった父親に、殺された日、可憐な花を咲かせたと聞く。その日が十二月の四日。どこにも居場所のなかった、私は、憎しみのギーに導かれ、この絵の前へと辿り着く。バルバラの日の祝祭に、伯母様が活けておいてくれたのだろうか? 床の上の、小さな花瓶へ挿した桜桃、の、花がこんなにも咲いている」
「身も心も傷つけられて、なお清らかな少女バルバラ。僕もメムリンクに導かれ、この絵の意味へと辿り着く」
「私も、苦難のバルバラが秘蹟をうけて聖女となられたように、しっかりと貴方を選んで、ヌヌという欺瞞の仮面を剥ぎ取って、桜桃の花のような安らかな素顔に早くなりたいわ」
「メムリンク! おれもお前のために、自尊心で汚れてしまった古い鉄の鋲が無数に打ちつけてあるこの靴を脱ぎ捨てて、早く裸足になりたいな」
「素顔と‥‥‥」
「裸足と‥‥‥」
「バルバラと‥‥‥」
おもわず「フフフフッ」と、ぼくたちは手を取りあって眸を見つめ、「ジングルのベルのクリスマス、おめでとう」と、あらゆることがらを忘れて笑った。
聖女バルバラの肖像画の前で、僕は化けの皮を剥がされた狼のように、古い靴と靴下を脱いでみた。
「おとぎばなしみたい」と、メムリンクは顔をくしゃくしゃにしながら元気よく笑った。
氷のように冷たくなった大理石の上を裸足で歩きながら、その冷たさに僕はマリオネットのようにぎくしゃくと跳ねてみる。するとメムリンクが、またくしゃくしゃ顔になって笑った。このときの顔はもう以前のような動脈硬化を起しそうになったときのくしゃくしゃ顔ではなかった。
乙女のように清らな表情をしたメムリンクの額へ軽いキスをして、ぼくたちは聖女バルバラの肖像画へむかい、まるで旧教徒風に二本指で十字を切って祈ってから、小さな花瓶に活けてあった桜桃を一枝もらい、踊場の階段をゆっくりとした歩調で駆け登った。(つづく)
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