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異端を継ぐ
若き獅子
歌舞伎俳優市川亀治郎 
猿之助の舞台を継ぐ・・・をTVで観た

スピード! スピード!! スピード!!!
速度学を提唱するポール・ヴィリリオが見聞きしていたらさぞや歓喜したであろう“七変化”ものの番組だった

印象深かったのは 亀治郎さん演じる出し物「金幣猿島群(きんのざいさるしまだいり)」の初日が無事終了した楽屋へ 叔父であられる猿之助さんから贈り物が届いていて その品物である色紙に大きな文字で書かれてあった言葉だ

教えるとは 希望を語ること
学ぶとは 誠実を胸にきざむこと
 
                :ルイ・アラゴン

と 猿之助さんの書で揮毫してあった

            * * *

その一節が書かれてあるアラゴンの詩;「ストラスブール大学の歌」

陽の色に輝やくカテドラル
ドイツ人どもに囚われながら
おんみは倦むことなく数える
めぐる季節を 月日を 流れる時を
おお ストラスブールのカテドラル

学生たちは別れを告げて逃れ出た
アルザスの空翔ぶ鵠鶴と
おんみの薔薇形窓の思い出を
いっぱいつめた背負袋を肩に
それは ながい別れとなる

教えるとは 希望を語ること
学ぶとは 誠実を胸にきざむこと
かれらはなおも苦難のなかで
その大学をふたたび開いた
フランスのまんなかクレルモンに
古今の学に通じた教授たち
審判者の眼差しをもった若者たち
君たちはそのかくれ家で
大洪水の明けの日にそなえた
ふたたびストラスブールへ帰える日に

学問とは永い永い忍耐
だが今 なぜすべてのものが黙っているのか
ナチどもははいりこんできて 殺している
暴力だけがやつらのただ一つの特性だ
殺すことだけがやつらのただ一つの学問だ

やつらは鉄の拳で撒き散らす
われらのかまどの灰までも
やつらは手あたりしだい撃ち殺す
見よ 教壇にうつ伏したあの屍を
友よ 何を われらは何をなすべきか

「無垢な幼児たち」の大虐殺を
もしもヘロデ王が命じたとすれば
それは君らのうちよりひとりのキリストが
あらわれでて 美しい血の色に
目覚めるのを怖れるからと 知れ

ストラスブールの息子たちはたおれても
だが 空しくは死なないだろう
もしも 彼らの赤い血が
祖国の道のほとりにふたたび花咲き
そこにひとりのクレベエルが立ち上るなら

今よりはかずかずのクレベエルたち
それは百人となり 千人となり
つづく つづく 市民の兵士たち
われらの山やまに 町まちに
義勇兵とパルチザンたち

われらはともに行こう ストラスブールへ
二十五年まえの あの日のように
勝利はわれらの頭上にあるのだ
ストラスブールへ だが何時と君たちは言うのか
よく見るがよい 震えおののくプロシャ人どもを

ストラスブールの プラーグの オスロオの
三つの受難の大学よ
よく見るがいい 銃をうつやつらの姿を
奴らはもう知っている 逃げだす日の近いのを
敗北こそ 奴らのさだめだと

よく見るがいい 奴らがおのれの運命を知り
士気もおとろえた その姿を
死刑執行人どもこそ罪人にかわるのだ
やつらに戦車と手先があろうと
やつらを追いだすのだ 今年こそ

武装を解除された英雄たちよ 武器をとれ
ストラスブールのためフランスのため世界のため
聞け あの深く どよもし どよもす
フランスの声を 祖国の声を
鉤十字の殺人どもは滅びるのだ

陽の色に輝やくカテドラル
ドイツ人どもに囚われながら
おんみは倦むことなく数える
めぐる季節を 月日を 流れる時を
おお ストラスブールのカテドラル


著;ルイ・アラゴン/訳;大島博光
新日本出版社『フランスの起床ラッパ』より



 
| 演劇 | 22:16 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
雨傘、雪傘。雪、雪、雪


 ルイ・ヴィトンの「カトリーヌ・ドヌーブとめぐるパリの旅」の広告ポスターからインスパイアされてはじまった僕の長編詩、『トランスシルヴァナイト』を昨年の10月から厭きもせずに書き続けてきた。
 そこで、ドヌーブと言えばあの名作『シェルブールの雨傘(1964)』をいつかまた観ておきたいと前々から思っていたので、冷え込んでいた昨晩、アラン・タネール監督の『白い町で(1983)』と一緒にレンタルショップでビデオを借りてきた。
 今朝起きてみると外は銀世界! おお!っと思ってさっそくカメラを持って近所を徘徊する。その後、朝食を済ませて『シェルブールの雨傘』を観る。映画は言わずもがな、あの有名な雪のふりしきるラストシーンで終わる。あまりの偶然だ! 今朝の外は2年ぶりの雪景色だった。

 以前に心日庵(しんびあん)という劇団の『あっち川、こっち川』という公演を観てファンになったので、午後4:00開演のチケットを予約しておいたので雪が降っている中をいそいそと出掛けた。新しい出し物である『初恋』は、四篇のオムニバスになっていて時空はバラバラであるが、終戦直後、昭和四十年代、そして現代と微妙に繋がっていて見事な作品であった。小生の愚作『トランスシルヴァナイト』における時空間にも似た脚本(当方の愚作なブログと一緒にしてすいません)作りがしてあってとても興味深く観覧する。観覧といえば、観覧車(・・・のようなもの)が舞台に設置してあって、その観覧車から望める一帯はむかし空襲にみまわれた処だったとのこと。身勝手で軽薄なボク流の解釈でいくと、ラストで観覧車のある公園(・・・らしい処)がまた登場するのを観ていて思ったのだが、この四篇のオムニバスは、観覧車が回転している最高位の一点から焼野原であった底面地帯を結ぶ三角錐の空間のなかで存続したであろう、過去や現在の、私達や私達の父や母である男や女の時間が、現在におけるそのときどきで結晶し、その結晶体(脚本家の意図や演者、それによってあぶりだされたetc.)へ映り込んでしまった客席にいる自分自身の心や姿を、もひとつ後の座席からまたぞろ観つめ、懐かしんでいるかのような不可思議な物語であった。
 企画/脚本は〈第四話 昭和39年・冬「故郷の雪」〉に登場する娼婦役の岩瀬あき子さんだ!! 舞台である娼館の窓の外は雪、劇場の外も雪、泣かせる第四話だった。

 『シェルブールの雨傘』に登場するドヌーブ役の恋人ギイは、兵役のために召集令状が届く。そしてアルジェリア戦争から帰還するも、脚を負傷して曳きずっている。なにやら今日は偶然にも“三つ”の雪の日? そして、またもや偶然!『初恋』の〈第二話 昭和25年・夏「手紙」〉に登場する男はガダルカタル島から帰還するも、やはり脚を負傷して曳きずっている。彼らは〈何者かの力〉によって双方ともにむかしの恋人を失くしてゆく。〈何者かの力〉とは・・・第二話も泣かせる物語だ。

 今日はなんだか妙な1日。
 だから、ついつい、このようなブログを書きたくなった。さて、タネール監督の『白い町で』もいい映画、観るのがいまから楽しみだ。うふふの、ふッ。


| 演劇 | 23:50 | comments(0) | trackbacks(0) | pookmark |
Fの11番という役者
 たそがれどきの川筋、橋と川に囲まれたような街がある。土手がジグザグと盛り上がっていて、その道ばたにひょろひょろとした草が2〜3本生えている。ときおり、けたたましい轟音をたてて、橋の上を電車が通過してゆく。橋はどうやら鉄道橋のようだが、すでにそうとう使い古されていてアカ錆びている。あたりの風景は目に見えないが、橋の近くに群がっているであろう街の匂いがそこに漂っていた。舞台にはただ一軒、ガード下らしき広場に屋台を大きくしたような食堂があって、空き地には椅子がわりになるような箱や、テーブルになる箱がいくつも置いてあった。
 そんな殺風景な“街”の土手を、手に赤いあやとりの紐をにぎった少女が歩いていて、その影には、編上げの半長靴にゲートルを巻いた男が寄りそっていた。少女は、いくらか知能障害を患っている。

 こんな風にしてはじまる劇団心日庵の『あっち川、こっち川』という劇を、中野にあるザ・ポケットで観た。昨日が初日であったから昨日観たが、劇はできるだけ初日の公演を観ることにしていたからだ。
 ザ・ポケットという名前がついているだけに、ここの劇場はコンパクトであったがとても観やすくて、声もよく通った。階段状になった客席の下にフラットな舞台があって、客席と舞台との結界にはコンクリートでできた河岸が設置してあり、その堤防にそって土手があり、鉄橋が掛かっていた。土手の道には傾いた電信柱が何本か立っていて、30Wぐらいの裸電球がいい味をだしていた。時は昭和47年頃の設定なのだ。
 こうしてだらだら書いてゆくときりがないのではしょってしまうが、劇はアナログだ!と、つくづく感じた。絵であれば、印刷物にたいする原画のようなものだが、役者の体温やバイブレーションがそのままこちらまで伝わってきて一体となれる。観ている側の我々は、位置的には川の水だか中州に生えているペンペン草かも知れないが、なにかの役を頂戴したようで、嬉しい。狭い舞台には総勢二十一人もの役者が登場するが、エッシャーの絵かメビウスの環のように循環している舞台の上で、それぞれが相対的に結ばれていて、その引力が突然に切れたり繋がったりしている。ただ、唯一、先の赤いあやとりの紐を持った少女とゲートルを巻いた男だけがその場を超越しているが、彼女の透明感は自然いつしか全体へと伝染しつつ、つじつまや帳尻のあわなかった人々も、ラストではそれなりの光を獲得してゆく。
 劇中、この少女が川の中を覗く場面があったが、その時、川面に反射した陽の光がゆらゆらと輝いて、一瞬少女の顔を照らしたことがあった。金山美由紀という役者がよかったからであろう。この場面がとても印象的であった。
 わたしはこの時、Fの11番という客席にいたが、なんだかちょい役をもらったような気がした。水中にいるわたしは、その水中から外を眺めているが、水面が全反射していて鏡のようにキラキラしているから少女の表情はわからない。わからないが、この輝きの彩りそのものがトータルであることをこの場でだれかがしっかりと確認しておかなければならない役が絶対に必要であると思った。そして、その役柄こそ自分なのだと確信した。幸い、Fの11番という客席は、それにふさわしい場所であった。
 この劇団の出物をまた観てみたいし、こうしてふたたび参加もしてみたいと思った。
| 演劇 | 11:03 | comments(2) | trackbacks(0) | pookmark |
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