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鉛筆派22回展
今年も『鉛筆派22回展』に参加します。 
共通課題テーマ「 THE ZOO 」と自由作品を含む、84名160点余りの鉛筆画作品の展示会です。宜しければご高覧下さい。







■会期/2024年2月29日(木)〜3月5日(火)
■時間/AM11:00~PM18:00 最終日PM16:00迄
■場所/コート・ギャラリー国立
■電話/042-573-8282
    http://www.courtgallery-k.com
■住所/186-0004 国立市1−8−32
■アクセス/JR国立駅南口を出て立川方面線路沿い徒歩2分




         *  *  *








  『簪を挿す憂き姫はバラ窓をまた開く』

死して浮遊し、変遷しながら新たな肉体へまた宿ると言われるタマシイの本気度を、あるいは嘘パチかも知れないことを考えているうち、ふッと幼いころに見た蛇の泳ぎっぷりを思い出してしまった。広い川面の上をゆったりと辷ってゆく蛇の姿はむろんのことだが、あとへ残した美しい波形が見事であった。なぜそのようなことを思い出したかは解らないが、新たな “からだ” となるための母胎へ向かい一心不乱に流転してゆく生きとし生けるものたちのタマシイとは… イノチとは… たぶん、そのように健気なものであろうと感ずるからだ。(ブラックなこの作品は原画を陰画にしたものです。出品作品とは異なります) 他に、『ボルヘスの牛頸』という小品を出品します。



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poem_ 簪を挿す憂き姫はバラ窓をまた開く
Icon_ 簪の蛇はバラ窓を開く
size_ 545×424mm 2024








| インフォメーション | 11:38 | comments(0) | - | pookmark |
2024 H a p p y N e w Y e a r !



2024 H a p p y N e w Y e a r !
新年明けましておめでとうございます。

源氏物語/宇治十帖〈浮舟〉の沈黙… かの姫君の行く先を探索しつづけて三年目、おと年も、去年も、あっちへごっつん、こっちへごっつんの日々でした。さて本年はどうなりますか? どうか懲りずに、お心温かなおつきあい宜しくお願い申し上げます。

とは言え、めでたい新年早々に能登地方や各地に強い地震がありました。能登半島は以前に能登町や珠洲市の近くまで旅したことがありました。思い出深いところですが、多くの方々がお亡くなりになったり行方不明や怪我や孤立、避難を余儀なくされたままです。今後、大雪や吹雪にもなるでしょう。余震はいまだ絶えないままですが、被害を受けた皆様のご無事をただ祈るばかりです。

一刻も早く普段の生活が戻りますように… と。





写真は同じ敷地内にある21階建ての屋上から元旦に眺めた遠くの富士山です。「 やすらぎの綾のかけら/P E A C E  P i E C E 」の光が少しでも届いてくれればと鳥に託して…





椿は散りても地上で二度咲く神木神花です。古代より霊気ある花のポレンを鳥へ託して…


            *   *   *


沈黙を余儀なくされた憂き姫の無言が、いつか言葉にならない叫びをもって歌詠みびとの西行と「やすらぎのかけらの都」にて出会い、そして、なにかを語り詠いだすのを吾は夢見て… (写真最上段)





| 日々是好日 | 09:29 | comments(0) | - | pookmark |
A P O p T O S I S /アポトーシス
汚れちまった都会の水 vs 美味しい水を飲む
      蜜のついた手の王とブナの姫君に就いての考察日誌




歩いて約2Kmのところに区立の赤塚植物園があって、そこに痩せてはいるがブナの樹が一本ある。以前にはもう一本あったが、枯れたかなにかですでに伐採されていた。ブナは暑さに弱い樹だからしかたないが、現在あるブナの葉は小ぶりだし、中核をなそうとしている枝は上のほうですでに枯れている。この先がちょっと心配な一本だ。

ブナの樹皮は特徴ある美しいまだら模様で覆われているのが通常だが、残念ながらその模様はない。まだ若いのか、すぐ乾燥してしまう都会の土壌のせいであるのかは解らない。近くには同じブナ科のコナラやシラカシもあって、饐えたリンゴのような匂いをツンとさせていた。クヌギが樹液を流し、懐かしい風景がそこにはあった。アカボシゴママダラは指で触っても知らんぷり、貪欲に樹液をむさぼっている。カナブンは縄張り争いをして賑やかであった。みんな生きてゆくのに一生懸命生なのだろう。


















             *   *  *


;楽器も歌もわたしは弱いが、音楽家の“沈黙”とは一体どのようなものだろうかと思ってヴァレリー・アファナシェフというピアニストの詩集『乾いた沈黙』を手にして読んだ。そして彼の音楽を聴いた。そのころからコロナが蔓延しはじめた。

:2021年の暮れ近く、読んだことのなかった『源氏物語』を読んで見ようと思った。読んだといってもザッとであるが、『宇治十帖』のあたりから気配が変わりはじめ、いつしかまじめに読んでいた。ヒロインの姫君〈浮舟〉は物語の筋とは関係なく口を閉ざしはじめ、言葉を失くし、やがて沈黙したまま、長々しかった『源氏物語五十四帖』は突然に終わってしまう。わたしはこのとき、大きな課題をその沈黙からネジ込まれたようでならなかった。

;街へ出る機会も減り、近所の植物園や武蔵野崖線をひたすら歩いては〈浮舟〉の行方を考えた。そしていつか発するであろう彼女の(そして自分自身の)叫び声を想像しては、雑木林のなかで木の葉や木の実を拾ったり、虫をながめて遊んでいた。「フッ!」と、むかし読んだ夏目漱石の『草枕』や、つげ義春の『紅い花』が動きだす。

;心にわだかまったカタチを思うように表現できず「もう描くのは止めにしようか」などと考えるが、本心ではなんとか“その”カタチを創り出してみたいという願望だけが蓄積されてゆく。そんなだらしのない迷いを野の花が癒してくれた。あらためて、自然の力を思い知ると同時に〈浮舟〉の行先は森でしかないと思う。それ自体、繭だから。

; A P O p T O S I S (アポトーシス)とは、多細胞生物がより良い状態を保つために積極的に引き起こす細胞自殺のことで、毛虫が蝶に変身する際の細胞死をいう。2番目のpが黙字(サイレント)となっていて、好きな言葉だ。

;2023年3月28日、坂本龍一氏が亡くなった。生前の彼については通り一遍のことぐらいしか承知してないが、彼の死を日ごと重く感じるようになった。けれども、こればかりはしかたがない。氏のご冥福を祈るばかりだ… 余談だが、伊福部昭が野坂恵子のために書いた二十五絃箏曲集『琵琶行』がとても好きなので、坂本龍一が沢井一恵に書き下ろした『箏とオーケストラのための協奏曲/点と面』を彼の死後、よく聴いた。最終楽章の「autumn(秋)祈り・コラール」に至っては、深い眠りと覚醒が極度に循環していて、音と音のあいだの沈黙に〈浮舟の君〉の本性を見るようでならない。

あと一つ、坂本氏のアルバム『async』のノートに書かれてあった彼の言葉を要約する… 作品をいじればいじるほどその良さは失われ、それに気づき、重ねたものを剥ぎ取っても、初めにもっていたアウラは失われている… 今のわたしには一番のクスリかも知れないな!(笑)

;そのクスリを服用しても未だ治癒しないが、ふたたびに、ヴァレリー・アファナシェフの詩集『乾いた沈黙』をまた開く。言葉と言葉の〈あいだ〉に隠れているコトバは、もう以前のコトバではなかった。と、知ることだけはできた。







| 宇治十帖 | 14:03 | comments(0) | - | pookmark |
中村宏「戦争記憶絵図」展



遅ればせながら、本日、中村宏氏の「戦争記憶絵図」展/銀座 ギャラリー58へ行ってきました。

リアルには強烈な感動があります。鈍い青空に、ジュラルミン製のB29が荒いタッチで白く描かれていて、それがキラキラと光りながら空を滑りつつ飛来してゆく。それへ加え、3枚組の絵画がその荒いブレをより強調するがためか、胸に迫るものがあって美しく、それゆえに悲しくなるような、見るものを複雑な気持ちにさせる作品群が並んでいました。

氏が唱えている「モンタージュ技法の援用」を自分なりに探るのがとても楽しかったです… 見るものを夢中にさせる“組合わせ”がどこにどう隠されているのか、などと眼を開いてはみたものの知りうる術はありません。右へ左へ唯ぐるぐると歩いている自分が嬉しかっただけです。明日が終了日です。伺う方はお気をつけて! 土曜日は17:00迄です。









































| 日々是好日 | 16:53 | comments(0) | - | pookmark |
宇治十帖〈浮舟〉の沈黙… モノリスの鏡

宇治十帖〈浮舟〉の沈黙… それから乃これから



 『 モノリスの鏡 』

かのひとは生きていた
かの憂きひとは生きていたのだ
青じろい水のなかから
空気のなかを
たづね歩いて
ゑんのOzぬの紅い森を
歩いていた

もう砕けるな------ と
   おんなは在りて在る

一つには

ほの暗い森のなかできんきんと鳴っている
朽ちることのない
孔雀明王咒の神器にも似た
ふるい鏡が置いてある庭先の
その鏡にとり憑かれ
歌詠みするおんな
神遊びする舞踏のおんな

幻影に------
   制約に囚われるな と

一つには

かの鏡はおんなにとっての蛹である
毛虫が蝶に変身するための
舞うための 業(わざ) 
積極的細胞死への神器なのだ
遊べ 戯れよ
雲ひとつない天空へむかって
耐えよ 耐えよ------ と








| 宇治十帖 | 21:47 | comments(0) | - | pookmark |
『光琳の生きた時代/国宝・燕子花図屏風』展
根津美術館で開催されている『光琳の生きた時代/国宝・燕子花図屏風』展を見ました。

六曲一双で構成された二つ一組(12枚組)の空間美を楽しんできました。まるで“花のワルツ”です。すぐ隣には異様な形の小舟にのった住吉明神が化身した漁師と、唐の詩人・白楽天を描いた『白楽天図屏風(六曲一隻・6枚組)が立て掛けてあって、小舟は第二扇目の中にほぼすべてのフォルムがタテ状に描いてあった。ふつう印刷物などで見ると舟はおかしなフォルムをしているが、ジグザクとした屏風なので、舟の描かれた一扇だけが眼に飛び込んできて、小舟がとても自然であったことに驚きました。

同時開催されていた展示室に置いてあった前漢時代の青銅製の長頸瓶は美しかった。

青銅から出た緑青のサビが薄桃色をしたオレンジであったり、浅黄であったり、薄白緑や濃白緑などが鱗のように綾をなし、それへ青や白のサビが浮いていた。さっき見たものはフッ飛んでしまったが、だからこそ、人間のつくりだした稀なワザは愛おしいなと思った。














| 日々是好日 | 21:30 | comments(0) | - | pookmark |
スカンノの少年/マリオ・ジャコメッリ


鉛筆派21回展『LUNATIX/ルナティックス』の初日、S氏に撮って戴いた写真をみた瞬間! わたしはマリオ・ジャコメッリの写真『スカンノの少年』を思いだしてしまった。酒がまわって蒼白い顔をして立っているわたしがその少年だと言いだしたら「笑止千万、なにを寝言を!」と笑われるだろう。けれども、わたしはそう思ったのです。ともあれ、そのことよりもリズム感あるこの五人の間合いがなんともいいのです。がしかし、人気のない街角に唯ひとりアカの他人の青年が佇んでいます。彼はこのなかのキーパーソンで、顔のわからない青年こそが『スカンノの少年』であり、わたしの分身でもあって、五人の、いや、傍で写真を撮ってくれているS氏とS氏の奥様それぞれの分身でもあろう… 
 (七人のうち、わたしの知人は二人だけ。あとの方は初対面でした) 

ジャコメッリといえば、虚無だとか孤独、生と死、異界、時間や夢といった冠がついてまわるイタリアの写真家ですが、わたしはそのことよりも、人気のないこの街角に立っている七人(八人)の出会いが嬉しくてならないのです。

人気のない夜の富士見通りに長々とある黒いアスファルトを剥いでしまえば、武蔵野の大地がそこにはいまだ広がっていて、鳥が、獣が、風がむかし、それぞれの場所からそれぞれの樹々の種子をこの一角へと運んできて、そして落していった。落ちた種子はここの場所で育ち、今日の今日、七本の樹々は夜風に吹かれてご機嫌なのだ。この偶然性がわたしは嬉しいのです。一瞬の、空間と時間のなんと美しい現(うつつ)であろうか。
                   PHOTO ; ICHIROU SAKAMAKI






2023年鉛筆派展は無事終了しました。お越しいただいた皆さま、あるいは出展者の皆さま、ありがとうございました。感謝です。



              源氏物語・宇治十帖〈浮舟〉より;空也聖獣






| インフォメーション | 16:39 | comments(0) | - | pookmark |
アポトーシス / A P O p T O S I S
コート・ギャラリー国立で開催される『鉛筆派』21回展が近づいてまいりました。お時間、おついでありましたら覗いてみて下さい。

         *  *  *

   『 月的なるものを巡って/LUNATIX 』

■会期/2023年4月20日(木)〜25日(火)
■時間/AM11:00~PM18:00 最終日PM16:00迄
■場所/コート・ギャラリー国立
■電話/042-573-8282
    http://www.courtgallery-k.com
■住所/186-0004 国立市1−8−32









   『 ゑ ん の O z ぬ の 紅 い 森 』

---------------- 源氏物語、宇治十帖〈浮舟〉の沈黙… かの女性(浮舟)のゆく先がどうしても掴めないまま、一年はあっという間に過ぎてしまった。なぜであれば「パラダイスを遠く離れて」が当初からの眼目であったがため、その人のゆく先ばかりを考えていたからだった。けれども、パラダイスは存外と近くにあったのである。

散っても地上でなお咲いている椿の花は、希望の花。だから浮舟も好きであろうと勝手に妄想しながらその椿を一つひとつ拾って歩いているうち、妖しいほどに黒ずんだのを拾ったとたん、私は原初的なる神々の森へと迷い込んでしまっていた。と同時に、オランダ出身の画家チブ・ホーフヒムストラの作品集『Ilslands/島』に書かれてあった序文のコトバを思いだす。以来、そのコトバが離れなくなってしまった。

  チブ・ホーフヒムストラがイメージの要素を
  そのまま残したり、省いたりするプロセスは
  ちょうど毛虫が蝶に変身する際の“細胞の死” 
  つまりとアポトーシスに似ている。
     ------スラフカ・スヴェラコヴァ博士

アポトーシスをより詳しく調べてみると、「アポトーシスとは個体をより良い状態に保つために引き起こされる積極的な細胞自殺!」とあった。また、語源であるギリシヤ語 apoptosis の第2番目の「p」は黙字(サイレント)であると記してあった。

総じて、彼女の孤独から引き出される言うにいわれぬ黙字「p」の無言・無声は、大自然なる沈黙の森で、たぶん、もう孤独であることをやめるであろう。けれどもそう簡単に心を開き、思いのたけを述べるだけの語彙や文法を持つまでには至らない。ほんとうの意味での彼女の蘇生は、深い森のなかでサナギがじっと静かに眠っているような“森の時間”を経なければならない。みずからの魔はみずからの意志で殺し切りおとさないかぎり、絶望はより深まってゆくはずであるから。

ところで、無手勝流で読んだ源氏物語を思い返せば、浮舟はふたりの男に愛されて、入水するほどの錯乱状態から横川の僧都に助けられ、なお深い森をめざし、途中、乞食(こつじき)の聖である空也と出会ってひとしきり踊り狂うも、都という平地文化が色濃く残った六道の辻を揺れてゆきかう男女の戯れがもどかしく、ひとり紅い花を拾っては、山の奥へ、奥へと歩いて行かなければならない業のようなものを、彼女はすでに持っていた。

浮舟の父親は桐壺帝の第二皇子である光源氏と異母兄弟をなす第八皇子の八ノ宮だが、浮舟の母親が身分の低い女性であったがため、八ノ宮はそのことを恥、浮舟を我が子だと認めたくない過去を持っている。おまけに、八の宮は光源氏とは敵対する右大臣家・弘徽殿の大后(桐壺帝第一夫人)の権力闘争に利用されるも、道半ばで投げ出されてしまうという哀れさであった。そんなふうな父親をもつ娘の心情とはいかなるものであったろう。父を思慕しながらも、その不誠実さと意志の弱さを幼いころからすでに見抜いていたのではないだろうか。そんな自身の生い立ちをもって、薫ノ君や匂宮ノ君をみてはいなかっただろうか。ならば、彼女の久遠の春は一体どこにあるのだろう。紅い花を拾っては、山の奥へ、奥へと歩いて行かなければならない「もののあわれ」を一身に背負った女のいのち、その人の夢とはなんであろうか…

源氏物語をこんなふうにみるとき、私は紅い椿の花が咲きほこっている深い森全体をひとつのサナギとたとえ、さらには、その森でもってやがては羽化するであろう眠り姫・浮舟がどのような樹木をみつけ、どのような糸を掛け、どのような夢を吐き、私のこころ惹く蝶となっていってくれるのか、と唯そのことばかりを思うのであった。それはあたかも、三重苦であったH・ケラーが嘔吐のごとく発した叫び声「 w - a - t - e - r - ! 」のような語彙をもって、姫自身が苦悩するたましいは姫自身で救済し、新たな和歌としての文法、三十一文字(みそひともじ)で詠いあげる花のごとき柔らかな歌声を聞いてみたいと望むからであった。それが為の処方箋は、私自身が確かな絵筆を握ることであろう。





*私の遊び文字、「ゑんのOzぬ」とは役小角(えんのおづぬ)と記すも、尊称されて役優婆塞(えんのうばそく)、役行者(えんのぎょうじゃ)などと呼ばれた七〜八世紀に実在した修験道の祖であり、咒術者である。と同時に、「おづ」を「Oz」と表記したのは「オズの魔法使い」にあやかったまでである。








       『妖 花』

      ポタリと散りても
      落ちてまた咲く
      ふたたびの花
      その花
      じりじり動く

      翔て走って
      山路をくだる
      ゆび笛鳴らした
      えんのおづぬの
      風のせい

      どれどれ
      ただの紅ではござらぬな
      落ちて二度咲く
      ふたたびの花
      ありゃ 椿の花じゃ


                      ゑ ん の O z ぬ の 紅 い 森





| 宇治十帖 | 19:56 | comments(0) | - | pookmark |
花ことば





  『花ことば』

花はたくさんのことばを秘めている
けっして無口ではない
人もおなじであろう

ある人には話せても
ある人には話せないままでいる
花とておなじだ

たとえば

一枝を落とし
二枝を落とし
一枚の葉を省いてみれば
花はあきらかに口をききはじめ
本性を語りだす

また

花が虫にあたえたご馳走の痕さま
その虫喰いの葉をソット残す
すると花が
つぎの時代に出会うであろう蝶の夢を吐き語りだす

あるいは

花器のふちを離れた葉との間のさだめは
人と話す距離のこころもち
キドリすぎても無造作でもなく
ただなんとなし… 

花と競ってその心を飾ったり
強いていじめて捻くり曲げたり
富貴を飾れば

花は 人は

ある人には話せても
ある人には話せないままでいる




| 日々是好日 | 11:55 | comments(0) | - | pookmark |
花遊び





固いつぼみも咲きはじめ
日毎 姿をかえてゆく

花遊びは愉快です。





| 日々是好日 | 11:58 | comments(0) | - | pookmark |
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