サセックの『ヴェニス』


神田で打ち合せをした帰り道 
最寄りの駅からは乗らずに一駅歩いてみた
裏通りを野良のわん子になって徘徊していると
な! なんと ミロスラフ・サセックの『ヴェニス』を見つけた
う〜ん いい色だな〜
ジタン煙草のようなセルリアン
そして スミが13%ほど混ざったバーミリオン
タイトルに「This is Venice」の「This is」がないぶん
ブルーが際立ち 赤が際立っている
舟乗りの顔付きも断然によい
欲しいな〜 だが 店はまっ暗
サセック(チェコスロヴァキア生れ 1916〜1980)の旅行絵本シリーズは
こつこつと集めて数冊持っていた
イタリアで印刷された当時のものだったが
どれも300円から800円ぐらいで入手したものだった
情報が少なかったので他にどんな国のものがあるのか 知るよしもない
しかし日本語版が2005年にブルース・インターアクションズというところから発刊され
池袋の本屋さんでサセックのキャンペーンをやっていたときに『ヴェニス』を知った
そして『ヴェニス』を買った

だが 野良犬が見つけた『ヴェニス』は別物!
空のセルリアン パンツのコバルト ゴンドラのブラックとバーミリオンの塩梅
無駄のないタイトル どこを取ってもシックで日本版とはぜんぜん違う
最近に刷られた輸入版なら簡単に入手できるがそれとも違う 
で 今日のお昼ごろ またそのお店へ行ってみた
う〜ん イタリアで印刷された1969年物だがお値段は〆て7000なんぼ
表紙絵のためだけにその額を払うほどの余裕が今のわたしにはない
サセックは今風で日本でもかなりの人気 トーゼンの価格かも知れない
しょうがなく その本とはバイバイした


なんだかボーゼンとしてうろうろしながらまた徘徊する
せっかくの土曜日 
卒業後にイラストレーターとして活躍している教え子
會本久美子さんの個展が千駄ケ谷のギャラリー・エフでやっているのを想出し
その作品群を見せてもらいに行ったがあいにく本人はお留守だった
ヘンリー・ダーガーを思わせるような画風でもあったが
今回はエンピツ画で全作モノクロ さらなる線を自在に見せてくれていた
そのギャラリーを出て千駄ケ谷の駅前までくると
わたしの目にまたまたブルーが飛込んできた
国立競技場でサッカーの試合があるらしく
F.C.東京のチームカラーを背負ったトラックと移動販売のショップだ
ひやかし気分で入って見るとかっこいいキャップが売っている
クラウンのフロント部分はチームカラーの紺と赤とでできた太いボーダー
クラウン後部は真っ赤なメッシュ素材
そしてブリムは真っ青で小さなサインが白糸で刺繍されていた
なにもかもがわたし好み! でも買わなかった
このごろはどうもしみったれていけない
でも もしかしてF.C.東京のハデなキャップを恥ずかしそうに被りながら
内心は嬉しそうに街を歩いている野良犬がいたとしたら
がまんできずに買ったんだな と笑ってやって下さい

これはブルー・フェティックな野良のワン子のひとりごと


注-1)上記の写真は夜であって、おまけに本にはビニールがかかっていてウインドー越しの撮影のため、右下にある日本語版のほうがカラッとした空気感で良く見えるかもしれないが、まるで月とスッポン状態だ。ゴンドラの黒も冴えないし、なんでこんな姿になっちゃったんだろうな〜?!

注-2)文中にて會本久美子さんの画風をヘンリー・ダーガー風と表現しましたが、このことはわたし個人の独断によるものです。





| 日々のアブク玉 | 13:44 | comments(4) | trackbacks(0) |
ホームページをリニューアルしました!
ブログがいまほど普及していなかったころはホームページを更新しなければならないと聞かされて、増築に増築をかさねてしまったホームページはいまや安旅館のていをなしている。
風通し良くシンプルにしたいのはやまやまだが、こんがらがったクモの巣の糸をほどくのがおっくうで、ついそのままであったり、たまに軽くしょうと手を入れれば入れるほど重くなってしまうのは不思議であり、自分ながら滑稽だ。



だが、ずーと気になっていたので重い腰をなんとかあげてホコリを払い、家具を移動し、無駄な部屋をぶち抜いて明るくしたつもりだからいくらかはコンパクトになったろうか。。。。。? 今はまあッ! 海辺の古い灯台を手に入れて白いペンキを塗ったあと、空のカモメを見ながら苦いコーヒーでも飲む気分だが、廃棄した作品はいまだ地下室へ投げ込んだままだ。しかし、これで手いっぱいの仕事だからしょうがない。

部屋をもっと取り壊し、壁に掛った絵を外し、できることなら新しい絵を掛けてもみたいがまたの日できることもあるだろうから、お時間許せばぶらり立寄ってみていただければとても嬉しい。自分をアピールするのがあまり得意なタイプではないが“プロフィール”を強化してみましたので、この箇所は要チェック・ポイントです。(笑)

ところで、いま見て下さっているブログ記事のすぐ右横下に『LINKS』という“改札口”があります。そこのトップにある「佐藤三千彦のSiteです」のボタンを押していただくと、ほんの少し暗いトンネルをぬけますが“旧軍艦茉莉号”という名のプラットホームへ出ます。するとそこにブタちゃん顔の蒸気機関車がながい煙りを吐きながら君を待っています。そのホームからブタちゃんのような、あるいはピエロのような顔の汽車に乗って、あとは順次お好きな駅のボタンを軽く押していただければ海が見えたり空が見えたり、山が見えると思います。。。。。。元船乗りだったわたしの執事が君をご案内致しますから、よいご旅行を! Bon Voyage。



| 日々のアブク玉 | 03:00 | comments(6) | trackbacks(0) |
リハビリテーション/vol.07


コンピューターばかり使って絵を描いていたのでリハビリをかねながら描いた『紙の駅から』はどうにかこうにか完成した。コンピューターにはコンピューターのよさがあるが、手描きには祝福のようなものがある。とはいうものの、描きはじめはずいぶんと苦労した。おもったように手や筆が動かず、へたくそなうえに絵がちぢこまってガックリしたことがなんどもあった。今回の絵は描くにしたがって少しずつ楽しくなって、重苦しいなにかが解放されていく気分を味わった。
以上、恥ずかしながらvol.01>>>vol.06と断片的に制作過程を公開してみたが、タッチがヘボいのであまりアップにできなかったことを反省するばかりだ。


『紙の駅から』

かくてえにしあれば
またの日きみとあはなむ

いにしえの
歌もきこえる紙の駅
たたずんで
そのひとと乗る機関車は

虹彩の鉄路踏みつつ
けむりたなびく



*『紙の駅から』とは二年ほど前にこのブログで書いたことがあったが、新宿高島屋の隣にあった東急ハンズの一階部分がいつの間にかルイ・ヴィトンのショップになっていた。写真はヴィトンのウインドウに飾ってあったカトリーヌ・ドヌーブをコンセプトにした巨大な広告ポスターだ。実物大とまではいかないが、そのスケール感が妙にリアルでいまもそのときの印象が忘れられず、つい描いてしまった。



| - | 00:17 | comments(6) | trackbacks(0) |
リハビリテーション/vol.06


昨日の夕方から水夫の絵を描きはじめたが、「紙の駅から」はもういいころかげん今日明日中には完成したい。

この水夫、ダミアが唄う『異国人』のようにどっこかの海で溺死体となって発見されるかも知れないが、今は英国の情報局秘密情報部員であって、もとは英国王立海軍海兵隊軍務長官であり、ときに考古学者であり、またあるときはカメラマンであり、過激組織「黒い手」の手先であり、ヘボな詩人であり、「双頭の鷲」の軍旗はためく王家が姫の恋人である。

なんと欲ばりなわたしの分身!



| 線から面へ | 11:26 | comments(0) | trackbacks(0) |
リハビリテーション/vol.05


ゆっくり時は過ぎてゆく
過去はもう戻らない
過ぎ去った日は惜しいけど
明日が待っている
ズンタカ ピズンタカ 
ピロロン〜 ピロロ〜


そんなふうにしてはじまるロマン・カチャーノフ監督『チェブラーシカと怪盗おばあさん』のキュートな音楽「空色の客車」を聞きながら、ぼくは一本のレールを描いて、また休憩です。

ずいぶんと昔のことだが、冬の夜に新幹線で京都へ行ったことがある。岐阜羽島駅から米原駅の間、つまり関ヶ原や伊吹山が見えるあたりは好きな処だがむろん夜でまっ暗。しかたなく自分が乗った新幹線の窓明りに浮かんだ小さな雪景色を眺めて過ごしたことがある。その日は豪雪で、レールは雪に覆われていて見えないが、対向列車が過ぎてゆくたびに高速で回転する車輪の熱に雪は溶け、かくされていたレールは生々しくも黒い裸体をさらけだす。するとすぐまた純白のベールを着飾るが、またもや弾丸列車に荒々しく犯されて、横たわったままでぼくにベールを脱いで見せてくれた。

レールの絵や枕木を丁寧に描いていると、その夜に見た熱くて細い鉄の裸体を想出す。


ひろがる大地 つづく線路
地平線が 待っている
明るい未来 夢を乗せて
列車は走るどこまでも
ズンタカ ズンタカ 
ピロロン〜 ピロロ〜



| 線から面へ | 09:57 | comments(4) | trackbacks(0) |
クロアゲハ

ぼくは君をみつけたけれど


この街で


たくましい♂の


パートナーを君は見つけられるだろうか



| 日々のアブク玉 | 17:35 | comments(2) | trackbacks(0) |
涙壷見学会
すこし前だが『涙の文化学/人はなぜ泣くのか』今関敏子編(青間舎刊)の装丁をやらせていただいた。泣くとはいかなる行為なのか………民族・文化・美術・演劇・文学・ジェンダーなど、さまざまな視点から涙の神秘に迫った研究書で、十余名の専門分野の方々によって構成された興味深い内容の本だ。装丁に使ったカバー写真は「涙壷」というもので、国立民族学博物館所蔵のものを使用させていただいた。それがご縁というか、今関先生の出版記念をかねながらこの「涙壷」を見ようということになって、千里万博公園内にある国立民族学博物館で版元の方や今関先生ほか、執筆者の方々とお会いした。

*楕円形の写真「涙壷」の回りには金箔のはちまきを入れた。

民博で開催されていた特別展『千家十職』は六月二日迄だったが、インフルエンザ騒動で延長され、運良く偶然に見ることができた。そして、午後の二時半からは『涙の文化学』で「涙壷」のことを書かれた国立民族学博物館助教授の山中由里子先生と、山岸智子先生による「シーヤ派の哀悼行事」という対談形式の講演会に参加して、講演後は実物の「涙壷」を見学した。が、驚かされたのは講演会に出席された人々の多さと、中東の問題に関する熱心さだった。

夜は『涙の文化学』に執筆された方々と食事しながら、新幹線の最終列車に乗り遅れるのではないかというほどまで楽しく語りあった。




写真は公園内にある日本庭園のアサザやコウホネ、スイレンなど水辺の植物だが、その近くでいまを盛りに咲いていたのは花菖蒲だった。そんな日本庭園へ入園する前に見学した大阪日本民芸館では柳宗悦の書のしつらえがおもしろかったので関係資料をさがしてみたがなく、山下洋輔が文章を書き、柚木沙弥郎が絵を描いた絵本『つきよのおんがくかい』を購入した。

バタバタした小旅行だったがお天気にめぐまれた楽しい旅だった。とくに印象に残ったことは、日本庭園の水辺にアオイトトンボが飛んでいて、とても懐かしくって感動したこと。



| 揺らぎの場 | 10:36 | comments(0) | trackbacks(0) |
聖書26/100週間


『サムエル記上』第16章〜第31章を読む

ダビデの活動が生々しく記録されてある『サムエル記上』の後半は
まるで映画をみているようだ
逆をいえば、映画による戦闘シーンやその史実を仮想体験するたびごとに
聖書とは魂のバイブルとしてあるだけではなく
生きぬくための戦術的バイブルともなっているのではないか? 
そう思わせるような『サムエル記上』の後半であった

まごころや裏切り
あざけりや慢心
誠意や忍耐
ありとあらゆる人のこころの糸がもつれもつれながらも
あるべき一本の糸筋となってゆく
その影にはたえず聖なるものへしっかり近づきたいという
まっすぐな人の心がそうさせている
良くも悪くも
力ある人の心から発する言動はおのずと歴史をつくりだす
二代目の王となるダビデの発する言動は
美しすぎるほどに良い力が発している雛形のようでならない

16章7節「人は目に映った華やかなことを見るが、主は心によって見る」
あるいは17章38節において粗野な格好をしたダビデが
青銅でつくられている見事な鎧兜を着るゴリアトと闘うさいに
「こんなものを着たのでは、歩くこともできません」
そういって無理やりに着せられた豪華な鎧兜を脱ぎすて
初代サウル王の名剣をも投げ捨てて
ダビデは自前の杖と道に落ちている五個の石ころだけで闘った
そして見るからに強そうなゴリアトをいとも簡単に倒してしまう
これらの二つのお話には共通する本質的な魅力がある

こうして物語はいろいろ進んでゆくが
ひとつ気なったことがある
それは神に選ばれて二代目の王となるダビデを憎む初代王サウルが
「ダビデを殺しはしない」と決意しているにもかかわらず
神はサウルを誘惑するがごとく
堕天使サタンのような「悪霊」をサウルへたびたび遣わして
そしてサウルを堕落させる
これはなにゆえの試みだろうか
わたしが持つ神への概念を狂わすような「悪霊」とはいったいなになのか?
心のねじ曲がった人間をためすことへの比喩なのだろうか?
いずれにしても気になる箇所だった

これが今週の感想です


今日の祈り;30章21節にある「荷物のそばにとどまっていた者の取り分は、戦いに出ていった者の取り分と同じでなければならない」そうダビデがさとすところがあるが、なんでもかんでもやったもん勝ちの現代において、その精神に学ぶところは大だと思う。荷物を守るものがいるからこそ身軽に戦えるのだ。この価値基準は先にのべた16章7節や、17章38節と共通したものがある。が、しかし、今日の企業における突然の解雇、あるいは党や派閥が互いに抗争しながら大切な事柄はいつでも棚上げにしたまま、ズレた感覚の政治家や実業家だけが勝って気ままにやっている現代。上に立つものは、そして我々は、つまり一人一人の人間たちがどうあらねばならないか、お導きを!




| 聖書100週間 | 11:02 | comments(0) | trackbacks(0) |
聖書25/100週間


『サムエル記上』第1章〜第15章を読む


いまだ混乱していた『士師記』の時代
抵抗勢力である他国との抗争において力を増すために
イスラエルは可視化できる強い指導者
つまり王を立てる必要性に迫られ
最後の士師であり 
祭司であり 
預言者であったサムエルという男は
神に選ばれたサウルという人物へ油を注いで王と定める

しかし生起したばかりで未成熟な王朝というシステムは
あらゆる場面において神を裏切ることとなる
眼前の仕事にあまりにも心を奪われすぎて
よかれと思って先走ったこと………
よかれと思って捧げた神へのいけにえ………
それらあらゆることがらが裏目となって
初代王であるサウルは反逆者とされてしまう
そしてついにはみずからの神に捨てられ
王位を失う………
なんとも憐れな王サウルのことが書かれてあった

王といっても所詮は人間
新たな王が出現し
名君だといわれても間違いを犯すことは多い
そのたびごとに人は可視化できる王を求めてさまよう
滑稽だがこのジレンマはそっくりそのまま現代へと持ち越され
今後これからも続くこと

さてさて 初代サウル王に続く第二代目の王ダビデは
はたして彼はどのような男であろうか………




| 聖書100週間 | 09:49 | comments(0) | trackbacks(0) |
リハビリテーション/vol.04


紙の駅から
…………………………

紙の駅から
デ・キリコ風のアーチを抜けて



本日のリハビリはデ・キリコ風の柱だけを描いて終了。




| 線から面へ | 00:11 | comments(0) | trackbacks(0) |
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