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ギリシャ悲劇的ジュビナイル・ロマン「空白ノ王国」 Vol_005

ギリシャ悲劇的ジュビナイル・ロマン
Icon_狼の太陽
poem_アポロン・リュカイオス




  「アポロン・リュカイオス」

その捕囚の王女はよくあたる予言をつぶやくことができた。けれども誰ひとりとしてそれを信じなかった。
-----恋多き青年美神アポロンは永遠の若さと不死を誇るがゆえに傲慢であり、冷酷であった。腕には金色のマジックで時計の絵が描いてあって、針は三時のおやつで止まっていた。そのおやつの時間であらゆる少女を誘ったが、恋はなにひとつ実らなかった。
ある日のこと、王女は頭がよかったので特別に美味しいおやつだけを失敬して美神に背をむけた。怒って分裂した美神は自分のおやつを食べている王女の口のなかへ唾を吐いた。以来、アポロンがとらえた視線のすべてを語ることができたが、呪の唾液で濡れてしまったおやつのせいで未来のことを予知しても、誰も信じなかった。王女はしかなし、未来永劫その悲しみを自身の法則でもって受けいれた。
さて、無用の戦利品になったゴミ屑といっしょに異国の地の谷の上から突き落とされて、落下しつづけているトロイアの王女カッサンドラは三千二百年もの瞬間を幾重にもつむぎあわせ、この瞬間をいま生きている。そして警告する。「恐れよ、恐れよ。太陽神は狼の姿をしていて、狼はねずみ族にとり囲まれながら座っていた。船を出航させてはならない!」と小鳥に声をたくして囁く。けれども、たぶん、だれも信じないだろう。






| ギリシャ悲劇的ロマン | 17:02 | comments(0) | - | pookmark |
ギリシャ悲劇的ジュビナイル・ロマン「空白ノ王国」 Vol_004

ギリシャ悲劇的ジュビナイル・ロマン
Icon_降りてくる手(部分)
606×455mm 2020
acryl gouache
poem_ミミズ




  「ミミズ」

雨はあっという間に降りやんで、濡れたアスファルトが強い光に炙られていた。そんなアスファルトの上に身を横たえて、一匹のミミズが眼のない眼ン玉をひどく回転させながら赤むくれている。ミミズは蟻に狙われて、金蠅に狙われて、ぎらぎらした全裸をくねらせ、もんどりうってねじくれていた。もう二度と穴蔵へはもどれないだろう。

それはそうと寒い大地に根ざして生きてきた人々が、夜汽車に乗って東京へ出てきた時代があった。キューポラの街や歓楽街でうまくいった人もいただろうが、そうでない人々が随分いたころの話である。迷宮のラビリンス------美しい星座の名のような大都会へひれふして、傷つき、みだれ、ひねくれ、雪ん子たちが待っている雪国へ帰りたくっても帰れない彼ら。-----彼らは〈絶望〉という名のマボロシ駅にたむろして、夜ごと北の暗さへ消えてゆく夜汽車の甘やかな咆哮に立ち合うごと、噫吁!と、まぶたを濡らさずにはおれなかった。









| ギリシャ悲劇的ロマン | 11:03 | comments(0) | - | pookmark |
ギリシャ悲劇的ジュビナイル・ロマン「空白ノ王国」 Vol_003
「始祖鳥の子どもたち」はすでにアップしましたが、気が進まず没にした「降りてくる手」の絵を利用して、再度アップしました。尚、タイトルの「……ジュビナイル・イコン(イメージ)」は「…………・ロマン(物語)」に変更します。

ギリシャ悲劇的ジュビナイル・ロマン Vol_003
Icon_降りてくる手
606×455mm 2020
acryl gouache
poem_始祖鳥の子どもたち




  「始祖鳥の子どもたち」

天空の朝明けから、かぼそい骨を持った翼あるものが「ちきちきちき ちきちきちき」と啼きながら降りてくる。だれを呼んでいるのだろうか、ぼくは死んではいないのに・・・と独りごちってみた。するといきなり、影が鳩尾を通り過ぎ、横隔膜を通り過ぎていった。わたしは少女ではなかったが、その日以来、そらまめのような形をした卵がふくれあがっていった。けれども、孵化はしなかった。ただ、水溜りやぬかるみを渡るとき、ふぁッと浮きあがることがある。そんな日はきまって良い息抜きができていて、新しい太古への旅立ちが待っている日であった。


未完・没「降りてくる手(部分)」






| ギリシャ悲劇的ロマン | 10:01 | comments(0) | - | pookmark |
死ぬにはいい日だつた




かわいい姫リンゴ

樹の下で
ドクダミ草のドラゴンと
格闘してきました

----七月みそひと

獅子座のドマンナか
今日は
死ぬにはいい日だった






| 日々是好日 | 16:55 | comments(0) | - | pookmark |
ギリシャ悲劇的ジュビナイル・ロマン「空白ノ王国」 Vol_002

ギリシャ悲劇的ジュビナイル・ロマン
Icon_降りてくる手(部分)
606×455mm 2020
acryl gouache
poem_あぶく玉



   「あぶく玉」

静かな水面に突然、あぶく玉がポカっと浮かんだ。えてして沼地や水田に多いが、いずれもメタン菌が放出するガス状の球体である。そんなあてどない球体を武蔵野崖線の沼地でぼんやり待っていると、右へ左へ息苦しそうに喘ぎつつ、銀色に光ったあぶく玉がゆらゆらと立ちのぼってきた。ガス玉はいよいよ膨れあがって出現して、鈍器かなにかで殴られたような音を発し、またもやポカっと割れ、青じろい痼(しこ)りだけを残しながらどこかへ消えていった。

他愛ないものにもあるだろう物語を思うとき、私は果てのない淋しさに突き落とされてゆく。

道で会った男を殺し、村で女と交わったがそれらは父母であった。とか、威張りくさった神々の生贄に愛娘を捧げてしまった男がその妻に殺され、あとに残った子どもたちがその母を殺す・・・ これはギリシア悲劇だが、三千二百年も前から、いま、そこで、ゆらゆらと立ちつくしながら壊れかかっている人影の、脆くも危なっかしい不確実性が原因であった。








| ギリシャ悲劇的ロマン | 16:34 | comments(0) | - | pookmark |
ギリシャ悲劇的ジュビナイル・ロマン 「空白ノ王国」 Vol;001



長雨の侯、美しい日本の四季は狂いだし、各地で災害が生じて、この国はいまや疲弊しています。しかし、それにも加え、地球規模で蔓延する昨今のコロナウイルスによる感染病の行末は、いまだ不透明なままです。息苦しいマスクのせいばかりではなく、胸が塞がる思いです。経済・重税・インフレ・災害・疫病・経済戦争あるいは戦争と、潜在する不安ばかりが広がります。

さて、この度「ギリシャ悲劇的ジュビナイル・イコン」と称するライフワークを始めました。見て戴ければと思い、H.P.に掲載しました。普段は寺男をしておりますので次回の通信がいつになるかは分かりませんが、第一回目は「降りてくる手」という絵に「始祖鳥の子どもたち」という詩でもって制作しました。尚、初回ですので「口上」らしきものを添えました。

             *  *  *

   「口 上」

遥かむかしのことを知る術はないが、紀元前1200年前トロイア王国が灰塵と化したその日、老いた王女へカベは人減らしをもくろんだオリンポスの神々や、トロイア侵略戦争を仕掛けたギリシャ人にむかって有罪判決を叩きつけるがごとき呪詛を吐く言葉が、今の私には身に沁みてならない。「その果てに、おまえたちは死に絶えるのだ、一人残らず。神々さえも」と嘆く。勝ち誇ったギリシャ軍の男たちで無事に祖国へ帰れたものは稀で、帰ったとしても悲惨な死が待っているだけだった。
けれども陥落前夜に父を背負ってただ一人城をぬけだしたトロイア側の王子アイネイアスは生きのびて、ローマ建国の祖となった。その間に多神は滅びつつ、旧約聖書は完成する。旧約聖書の完成から400年後には、イエス・キリストが降誕し、奇しくもその降誕の27年前、古代ローマはローマ帝国へと成立した。

私はこの一千年もの間を「空白ノ王国」と呼んで楽しんでいるが、渾沌としていたであろう時空を、ギリシャ軍の総帥アガメムノン大王の息子オレステスにつきまとっていた復讐女神の化身〈虻〉の狂気とつきあいながらも、今日の閉塞感ある街をデタラメに歩いてみたい。



ギリシャ悲劇的ジュビナイル・ロマン
Icon_降りてくる手(部分)
606×455mm 2020
acryl gouache
poem_始祖鳥の子どもたち



   「始祖鳥の子どもたち」

天空の朝明けから、かぼそい骨を持った翼あるものが「ちきちきちき ちきちきちき」と啼きながら降りてくる。だれを呼んでいるのだろうか、ぼくは死んではいないのに・・・と独りごちってみた。するといきなり、影が鳩尾を通り過ぎ、横隔膜を通り過ぎていった。わたしは少女ではなかったが、その日以来、そらまめのような形をした卵がふくれあがっていった。けれども、孵化はしなかった。ただ、水溜りやぬかるみを渡るとき、ふぁッと浮きあがることがある。そんな日はきまって良い息抜きができていて、新しい太古への旅立ちが待っている日であった。



*「ベアト・アンジェリコの翼あるものと受胎告知」.....関連記事です。
      http://blog.michihico.com/?eid=1018684





| ギリシャ悲劇的ロマン | 12:31 | comments(0) | - | pookmark |
ベアト・アンジェリコの翼あるものと受胎告知



   「翼、越え」

イタリアの作家アントニオ・タブッキの「ベアト(フラ)・アンジェリコの翼あるもの」を、また読んでいる。理由はさだかでないが、「受胎告知」を描いた画僧アンジェリコである前に、彼がひとりの農夫であったことに強く惹かれたからだ。ゆえに“天使”が彼の前にあらわれて、彼もまたその“天使”を見ることができた。無垢であることへの納得が私に芽生えたからであり、土にいのちを根ざそうとした魂がよびよせる翼あるものたちの姿を再び夢想してみたかったこともある。昆虫のような、丸いサラダ菜のような、骨と皮だけのような、怪奇というよりは滑稽なまでの多様性や豊かさ、筋道の立たない形態ではあるが妙な優しさ、ふくよかな光に包まれるような寛容に満ちあふれた穏やかさ。

知的生命体の火星人が“タコ型”星人と呼ばれていた時期があったことを思い出しながら、私は私なりに翼あるものたちの形態を探ってみるが、そんなことよりは、羽音のざわめきのなかで「明日はぼくらを描かなくてはいけないよ、わざわざそのためにやって来たのだから」と翼あるものたちに催促されたアンジェリコが、ズッキーニや泥で染まった指でもって修道院にあった寛衣(トウニカ)の中から薔薇色を選んだ触覚を愛する。


   倒れないよう椅子によりかからせ
   膝を折らせ
   うやうやしい物腰で
   両手を胸まえに組ませて
   翼あるものに言った。
   「薔薇色の寛衣できみを覆ってあげよう
   きみの身体はあまりにも醜いからね。
   -----いま描いているのは
   〈受胎告知〉なのです」
   


すこしづつ描きあげていく画僧としての仕事中、玉葱もまた、土くれのなかのバクテリアを食べながら丸々と育っている。そんな玉葱やトマト、ズッキーニを彼は食べ、彼の仕事を手伝った僧も食べながら「受胎告知」は描きあがってゆく。そう考えてみれば、水や、肥やしや、ミミズや、バクテリアも手伝ったことになるのではないだろうか。コンダクターとしての画僧アンジェリコが森羅万象生きとし生けるものたちとともに「受胎告知」を描きあげたとき、空から舞い降りてきた翼あるものたちはマッハの速さで翼越えしてしまっていて、消えていた。

その瞬間の消滅から六百年後のこの地上、自己の皮膜だけを肥大化させていくサイバー空間や、眼に口に、耳に体に心地よい潔癖なものや快適なものばかりを消費させようとする資本主義社会=万物商品化によって人のこころは先細り、蝕まれていく。本来であれば、夢心地するような胎内回帰にも似たものであったろうが、人々は罠にかかり、いわばホルマリン漬けされた胎児の姿態のように目玉だけを大きく見開いた生きものへと変質しつつある。こんな世であっても、たった一枚のヴェールを怪奇なモデルに着せたと言うアントニオ・タブッキの安あがりなイリュージョンへのざわめきを、私は愛する。薔薇色の、薄いヴェールの皮膜を透かすタブッキの透視図法、その水面下を想像しろと言わんばかりの彼の解剖学が好きなのだ。なぜであれば、タブッキがアンジェリコに言わせる「ぼくがきみのことを解るのは、ぼくがきみのことを解るからに尽きるようだ」。このことは森羅万象あらゆるものごとに「耳をすます」ということであり、聞こえた!ということは、世界はそこにこそ存在していて、ただそれだけでも生きてゆくことに意味があるということを教えてくれる。そのような翼あるものに、安あがりな薔薇色のベールを被せて描く土に根ざした画僧の画業。たとえ稚拙であっても、安あがりであっても、得難い錯覚を呼び起こすことのできる画家に私もなってみたいと、翼越えしていったエーテル体にむかって「ノウマク サンマンダ バサラダン カン」と手をあわす。



   http://blog.michihico.com/?eid=1018681







| 文学 | 11:59 | comments(0) | - | pookmark |
風散布されるカロリナポプラの綿毛たち
この季節、都立赤塚公園のカロリナポプラの種子が風にとばされて舞いはじめました。その枝を拾ってコップに挿して飾っておいたら、二日後、早朝には気づきませんでしたが、寺男の真似事をしてきて昼に帰宅したらビックリ、雲のように瀧のように離々と綿毛が透けていました。じつに美しいですが、人の気配がしただけでフワフワと飛び回ります。しかたなし、瓶にそっと閉じこめました。


2020_5_25/19;00_____________
夜の散歩で見つけたカロリナポプラ



2020_5_26/06;15_____________
朝の散歩で見つけたカロリナポプラ



2020_5_26/10;30_____________
コップに挿しておいたカロリナポプラ



2020_5_28/12;30_____________
雲のような、瀧のようなカロリナポプラ



2020_5_28/14;00_____________
瓶に閉じこめたカロリナポプラ。




         *    *    *


今日の朝にUPしたカロリナポプラと同様のものですが、この丸瓶には昨年のポプラが入っています。うす茶色のほとんどがそのポプラです。ななめの太い枝やキミドリ色のつぶつぶの実は今年になって拾った新しいカロリナポプラです。なかよく一緒に入っています。




こちらの写真はもう一方の丸瓶と同じものですが、朝の光や場所の関係でキラキラと真っ白に輝いています。けれども、それは今年に拾った新しいつぶつぶの実が瓶の中で開いたばかりでありますから、やはりそれなりに真っ白く輝いています。けれども来年になれば、これもまた歳老いて茶色くなっていくのでしょうね。




2020_5_26/10;30_____________
風散布されてゆく綿毛たち


以上、すべて都立赤塚公園内で拾ったカロリナポプラの観察日記







| 日々是好日 | 16:33 | comments(0) | - | pookmark |
「ベアト・アンジェリコの翼あるもの」アントニオ・タブッキ
Facebook/Book Cover Challengeより

読書文化の普及に貢献するために好きな本を1日1冊、7日間投稿するチャレンジ ・リレー!七回目です


「ベアト・アンジェリコの翼あるもの」
著者  アントニオ・タブッキ
訳者  古賀弘人
出版社 青土社


ブック・リレーも最後の一冊となりました。繋いでくれた堀川さんやこれまで読んで下さった方々、どうも有難うございます。とても楽しい日々でした。私は新しい着想で作品に挑むたび、本箱の本を並び換える悪癖があります。この度のリレーも、ここ最近になって並べ換えたものや共振しあっている本を選んでみました。シモーヌ・ヴェイユやアッシジのフランチェスコ、聖ヒルデガルト(・フォン・ビンゲン)の医学と自然学、中沢新一の野ウサギの走りなどがいま一カ所に並んでいます。ですからどれにしょうか迷いましたが、共振力の強いものや、親しみのある本から選びました。が、今回のアントニオ・タブッキの「ベアト・アンジェリコの翼あるもの」は一回目の「西行花伝」とともに、共振というよりは、強く共鳴しあっている一冊です。そんなふうに震わせる震源地には、フェリーニ監督の映画「道」が地球ゴマのように一定のバランスを保ちつつ、しがない芸人ザンパノのような私の肩をたえず叩いてくれます。また、聖フランチェスコのような綱渡り芸人《キ印》には憧れますし、世間をギクシャクとしか歩けなかった人魚姫のようなジェルソミーナが強張った私の魂をいつも柔らかくほぐしてくれます。

去年の夏に眼の手術をして以来、近くにある雑木林や植物園を毎日のように散歩しながら、虫や鳥、花やタネや枝や風や、雲や雨などとまた新たに出会い、語り合ってきました。その延長線上で、以前から一度はやってみたいと願っていた仕事に偶然であい、いま縁あって真言宗のお寺で寺男のような仕事をしています。朝はゆったり食事をしたいので、仕事のある日は午前四時前には起きています。一月二〇日から始めましたから、新型コロナウイルスが日本でも騒がれてはじめたころで、なんだか奇妙な縁だったと思います。寺の境内に落ちている花、果物、石、落葉、木の実や小鳥の糞など、どれもがみな美しく、竹帚で掃くほどに心やすらかに語らいあうことのできる相棒たちです。けれども、境外の歩道へ無造作に捨てていった人間の匂いのする欠片とは上手く話せないのが可笑しいです。が、そう思う私のこころを戒めるように、あるいは浄化するように、不動明王の護摩壇から仏具の触れあう美しい金属音が日々聞こえてきます。

おそらくは、「ベアト・アンジェリコの翼あるもの」の主人公・修道院僧&画僧アンジェリコも、私が暗い蟻の巣の穴から響いてくる声を楽しく聞いているように、野菜畑に植わっている梨の木のとげとげしい枝と枝のあいだに引っかかっている“翼あるもの”たちが見えたのでしょう。「なぜきみはぼくが見えるのか?」と翼あるものに尋ねられたアンジェリコが「ぼくがきみのことを解るのは、ぼくがきみのことを解るからに尽きるようだ」と、著者アントニオ・タブッキは解きあかします。羽を打ちあわせる響きの言葉や虹のようなフォルムを見聞きできる所以こそが、あの「受胎告知」ではないだろうか・・・。いま私もそんなふうにして絵を描こうとしている。描きたいと思うが、今後これからのライフワーク、描けるだろうか。



*我に五月を! 紫水晶のような鳥の糞





| 文学 | 16:41 | comments(0) | - | pookmark |
「永仁五月三日の刀」赤江 瀑
Facebook/Book Cover Challengeより

読書文化の普及に貢献するために好きな本を1日1冊、7日間投稿するチャレンジ ・リレー!六回目です


『野ざらし百鬼行』より、短編「永仁五月三日の刀」
著者  赤江 瀑
出版社 文藝春秋
装画  坂東壮一
A・D  坂田政則


赤江 瀑氏の本は、あれもこれもいいという具合いでそれなりに読んだつもりだが、なかで好きなのは何かと問われれば、長編『海峡』は図抜けて良かった。それでも『野ざらし百鬼行』に収録されている「永仁五年三月の刀」だと真っ先に応えたい。永仁とは鎌倉時代後期の元号、五年三月とは刀の茎(なかご)に刻まれてある日付銘で、反対側には来国俊(らいくにとし)と銘打ってある。一世の名工・来国俊の作であるが、別名「螢丸」と呼ばれている。「螢丸」には伝説があって、楠木・新田勢に破れた足利尊氏が筑前(現在の福岡県宗像市)に逃れたとき、打って出た肥後の菊池勢に参戦した阿蘇大宮司惟国の子、惟澄(これずみ)が戦場に帯びた名刀とのこと、けれども負戦となって、ほうほうの体で菊池館へもどった惟澄はボロボロになった刀に神徳を誓い倒れ伏したとき、こぼれ欠けた刃の破片が一つ一つ元の場所へ還り飛んできて修復されたとのこと。その様子が、無数の蛍が飛んできたかのように見えたところから「蛍丸」と名付けられたと言う。しかし刀は終戦直後、進駐軍の何者かに持ち去られて未だ行方不明だとか。物語はそんな幻の刀が織りなす夢のような現で、史実というか、伝説の刀匣へ現実の刹那がすっぽりと入れ子になっている奇妙な野ざらし鬼行だと思った。

ここまでが伝説で、本筋である現実話は、安ホテルへ泊まった男の部屋にフロントから電話があって、休憩に利用した先の客が忘れていった品物(永仁五年三月の刀)を取りに伺いたいが在るだろうか・・・と言ってはじまっていく。取りにきたのは奇妙な女で、上品な物腰ではあるが、どこかしら濡れたように淫蕩な女だった。男は風呂敷に包んであった刀をこの女に渡したあと、あわあわと群れだつような光のなかで、一瞬にして性的な関係に引きずりこまれてゆく。たったそれだけの話だが、まるで螢が疲れはてている男をなめつくすようで面白かった。

赤江氏は下関長府の生まれで、氏の世界には平家滅亡の修羅が匂う。逆さクラゲ(温泉マーク)のネオン管がジイジイと唸っている安ホテルの部屋に「永仁五年三月の刀」を受けとりにやってきた女とは・・・、どこかしら平家の女人のようであって、刀は海の深みでじっと眠ったままでいる草薙剣のようでならなかった。永仁の刀を口実にして、現世の男と情を結んだ女はなにをもくろんでいたのだろうか。また、なにの恨みを浄火したかったのであろうか。






| 文学 | 17:04 | comments(0) | - | pookmark |
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